神の行われた歴史を見ると必ずしも神に起用された者が栄える人生を過ごしたわけではない。
最初の人アダムは神と疎通を始めて創造の目的を成すべき人であったがサタンのまどわしによってエバと共に堕落してエデンの園を追われて生涯苦しい生活を送ることとなった。
ノアは神の裁きの洪水が収まる五か月の間方舟に乗りながら自由のない生活を強いられることとなった。
モーセは自らは神が直接相対して話を交わし旧約の土台となる律法を授かった大預言者であったにもかかわらずカナンの地を見ることはかなわずに逝去した。
士師のエフタはイスラエルが偶像崇拝を行ってアンモン人に侵略された際に立てられ、神をより頼んでイスラエルを率いて戦いを挑みアンモン人を退けるに至った。しかし誓約にしたがって一人娘を失った。
士師のサムソンはペリシテ人につかまって両目を奪われた後ダゴンの聖殿の柱を引き抜き自らも下敷きとなって凄惨な最期を遂げた。
預言者エリヤはカラスの与えるパンと水によって苦しい歳月を過ごした後にバアルとアシラの総勢八百五十人にも上る預言者を滅ぼした直後、今度は王の妻イゼベルに追われ、逃亡した後にしばし活動するもののエリシャにその使命を引き継いで「昇天」を迎えることとなった。
サウルは神に油注がれて王となったが、新たに立てられたダビデに敵して生きるうちにペリシテ人との戦争の中で自害することとなった。
祭司ゼカリヤはその父エホヤダがアハジヤ王の子ヨアシをアハジヤ亡き後にその母アタリヤの手から救い出して再び王として立てたが、そのヨアシによって石で打たれて殺害された。
預言者エレミヤは南ユダの末世に現れ、生涯イスラエルの滅亡を叫びながら殴られ、枷につながれ、穴に投げ入れられ、遂には南ユダが滅ぼされてバビロンによって自由を与えられるまでさまざまな苦痛を受けた。
ヨシヤ王は過越しの祭りを復興し、偶像を切り倒し、神の宮を修繕したけれども自国の領土を通過しようとしたエジプトの軍隊と戦う中で戦死した。
イエス・キリストは自らは義なる方であったにもかかわらず福音を伝えた三年半の間は絶えず迫害を受け続け、遂には十字架によって万民に救いを与える道を歩まれた。
このように中心人物、預言者、メシア、いずれの級の使命者も苦難の歳月を過ごした人は数え切れない。しかしこれらが皆「一つは尊い器に、一つは卑しい器に造る」ように、あるいは「天地が創られる前からキリストによって神の子たる身分を授かるようにあらかじめ選ばれた」ように絶対的に予定されていたわけではない。使命者は神の前では一方では一人の人間であり、他方では時代を代表する立場として時代の責任を負って神の前に立たなければならない存在である。さながら「卑しい器が汚れを除き去れば尊い器として用いられる」ように個人としても神の前に完全であるように努める責任を負うが、一方では時代の象徴としての姿を映し出すことがある。
アダムはサタンの誘惑に打ち勝つことができずに神の御言葉に背き、エバと共に堕落してその身に呪いを受けて生涯苦しい生活を強いられた。
ノアはその時代神を愛し神の前に全き者としての認定を受けたが、人々が神を思わず神が「人を創られたことを悔いる」ほどの性的な乱れと放縦、暴虐をもって地を満たしたことによって時代が裁きを受けた期間は自らの命こそ救われたけれども、方舟の上で五か月の時を過ごす苦痛を共に負わなければならなかった。
モーセは神の前に従順し、当時の大国エジプトの王の前に幾度となく大胆に進み出てはしるしを行って遂にはイスラエルを導き出し、その後も神の前に民のためにとりなしをし、四十日四十夜山で断食をしながら律法を授かるもついには民の不信と悪評が限界に達したことで自らの命こそ救ったものの時代の責めを負いながら民と共に四十年の間荒野をさまようこととなった。
エフタは士師として勇猛にアンモン人に立ち向かいイスラエルの危機を救ったが、神が望んでもいない人柱の請願を立てることによって最愛の一人娘を失った。神は「自らの息子娘をモレクに捧げる者を怒る」方であり、また「犠牲よりも従順を好む」方であってそのように人間を捧げることによって憐れみを施される方ではない。ただ「神に誓ったことは果たさなければならない」との戒めによって自らの口から出たその過ちを償わなければならなくなったのである。
サムソンは生まれながらのナジル人として神の前に捧げられた勇士であったが、異性の誘惑にたびたび陥ったことによって一度は経済の危機に陥り、二度目は自らの両目、そして遂には命を失うこととなった。
エリヤは自らは神の預言者として正しい人であったが、偶像崇拝のはびこる時代に対する三年半の裁きの期間は同じ天下において干ばつの苦痛を受けながら無念にも偶像に捧げられた肉と水をもって生き延びざるを得なかった。そうしてひとたびイスラエルを偶像から立ち返らせたものの、彼は心が耐えられずにイゼベルの前から逃げ出し、再び神の使命を全うすることができずにエリシャに使命を引き継ぎ、自らは命を失った。
サウルは彼によって国を救おうとの御心を置かれて王に選ばれたが、神の前の従順を忘れ自らの思いのよしとするところに従って政治を行い、かつそれによって神が「悔いられ」新たに選んだダビデの命を狙って過ごし、しまいにその報いを身に受けることとなった。
ゼカリヤはその父エホヤダと共に神の前に正しい道を歩んだが、エホヤダの恩を忘れて偶像に走ったヨアシによって邪悪な時代のもとで聖殿と祭壇の間で殺された。
エレミヤもまた満ち満ちた偶像崇拝によって滅亡を目前に控えたユダにおいて神の前で民のために涙をもって憐れみを請いながら祈ったが、神に仕えることを厭うた王や民、そして偽りの預言者たちのゆえに自身の命こそあれど荒廃した国において窮乏した生を送ることとなった。またその時代の人々の憎しみによって自らの憐れみとは裏腹に虐げられて過ごした。
ヨシヤは神の前に立ち返らせるさまざまの義を行ったが、一方ではエジプトが上ってきたその光景を前にして最後まで神に祈ることを全うできずに自己主観と周囲の人間の声に流されて滅ぶこととなった。
メシア・イエスは「栄光の主」としての預言がなされ、「メシアを送る」との絶対的な予定に従って神から遣わされ、ご自身は数々のしるしと新しい時代の御言葉と四千年の約束を果たすための厳格な宣教の方向と限りない慈しみと愛、そして時のしるしによって完全にメシアとしてご自身を現わされたにもかかわらず、「神が火と剣を持って雲に乗ってくる」との預言を文字通りに信じて神が人を通して働かれる法則と「女の生んだ子」として地上から来られるとの預言に無知であった宗教指導者たちによって迫害され、さらには自らの証の使命を悟ることのできなかったバプテスマのヨハネが政治に割り込んで処刑されたことによって完全に土台を失ったことで、傾いた時代を救うために自らの肉体を十字架に差し出すことで何とかうず高く積もった罪を清算して人々の霊の救いを成し遂げる運命を辿ることとなった。「世の支配者たちのうちでその知恵を知っている者がなかった」ゆえに肉も栄え霊も栄えるはずの時代は霊の救いだけを成し遂げる苦難の時代となった。
神は天体を運行され、季節を移され、雨を降らし、日を照らし、人々に夢や幻、万物、はたまた聖書を通して啓示を与え、霊感を与え、考えを与えられながら人の文明が発達するように導き、全て成される事柄ごとに九割から九割五分に至るほどその神としての責任を果たされる。しかしご自身と人との愛の目的を成すために人間には自由意志を与えられ、その御心の五分から一割ほどの責任分担を課された。そしてこの最後の五分から一割は少ないようでありながら人間が人間として十割の行いをもって初めて成すことのできるものであって、心と精神と命を尽くして初めて満たすことのできるものなのである。これは日常起こる全てのことがそのようである。
「私はまた来る」との新たな時代も来ることは予定されている。すなわちメシアが来ることは予定されている。しかしメシアが来たとしても神だけでその時代の御心を成すことはできず、人だけでも成すことはできず、神と人が、メシアと彼を見分けて従う者たちが共にその責任を果たしてこそ成されるものなのである。