CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
宗教系問いかけシリーズ

帰ってきた宗教系問いかけシリーズ第二弾『New Harmony Churchと勉強(学問)』

Library

かつて、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNew Harmony Churchに通う一個人の目線で分析して語ることで、NHCに対する共感を集め、なんなら読者にNHCのファンになってもらおうという野心的なシリーズがあった。人呼んで、「NHC宗教系問いかけシリーズ」である。

このシリーズは、

「うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…」

という当時のNHCのSNSの担当者の一言から始まったものであり、一部の人には根強い人気があったとされるが、そのシリーズを執筆していた担当者がある時から詩や童話の創作に興味が移ったため、

「ひとまずこれは締めくくってしまおう」

というその執筆者の独断のもとで突如終結してしまった。

その後紆余曲折あって(詳しくはこちらの記事をお読みいただきたい)ひっそりと再開したのがこの「帰ってきたNHC宗教系問いかけシリーズ(仮)」である。

さて、近頃は生き方も人それぞれであり、一昔前なら普通だった道はもはや普通ではなくなり、むしろそこから逸脱したところにこそ本当の道があるのではないかと噂されるようになっている(世が移るのは常である)。そんな中で家庭ではこんな会話が交わされていることだろう。

「勉強をやめるですって!?宗教なの!?」

今回はこの「NHCと勉強(ないし学問)」というテーマについて私なりに思うところをつづってみようと思う。

先の会話についてであるが、このように学業を捨てるのが宗教に結び付けられるのは理解できる。パウロは自身がヘブル人でありローマ市民であり著名な律法学者の弟子であったことを「糞土のように思っている」と言い切ってイエスの新しい福音の宣教に身を投じ、ペテロもまた漁師の生業を捨てて宣教に生涯を捧げたのだから。他にもイエスの十二弟子は皆イエスについていった者たちであった。

ではまずここで一つ目に、あえて波風の立つ方から述べると(私は選ぶことができた)、結局は勉強を捨てたってよいのではないかと思っている。

勉強は手堅い。それは学歴をもたらす。学歴は就職先をもたらす。就職先があれば生活はできる。

実際、勉強にある程度しっかりと取り組むことと生活について、NHCが属するキリスト教福音宣教会の創始者である鄭明析はこう言っている。

「勉強というのは頭脳を発達させるための一つの生の科目だ。そういう意味で勉強をしなさい。卒業したら必ずしもその分野で働くわけではないのだ」。

ではなぜ「結局は捨ててもよいのではないか」と考えるかといえば、それは基本的な知能が発達したなら、あとは神が賜った個性と才能を信じるからである。

親は子を愛するがゆえに子が苦しむのを見たくないし、苦しみゆえに非行に走るのは耐え難い。生活を保証してやりたいけれども、結局は親がいつまでもいるものでもなく、多くの場合、子に十分な資産も残してやるほど裕福ではない。ゆえに、子が自ら生活を営めるように導いてやるのが多くの親の限界なのである。そして最も確実性が高い道が勉強することだから勉強を勧めるにすぎないのである。

そういうわけであるから、なにも全く挑戦しないうちから確実性の高い道を行く必要はないのではないかと思うのである。はじめはうまくいかないかもしれないが、親が経済的に瀕死になるまで長期間うまくいかないことも、親を頼りに挑戦し続けることもないだろう。

なお、この話には重要な前提があるが、神はご自身にその才能を捧げる者に報いずには決して終わらない方だということである。

ちなみに私自身はNHCに通って神の働きを経験するうちに徐々に大胆に行動する一面を持つようになったものの、それでもなお急激な変化を求めない限りは飛び石を渡るよりは石橋を渡る方を選ぶ(葛藤は常に生じる)。私自身のこの安全を好む性格がそうした価値観で生きてきたからなのか、神が与えた個性なのかは分からない。安全を好むなら好むで、それなりの栄え方があろうとは思う。しかしなぜこんなにも失敗を恐れるのかといろいろな要因を考えるとき、せめて幼い子には失敗を笑って許容してやりたいと思うこの頃である。

さて二つ目の残った方を話すと、NHCは勉強や社会生活をやめるようには教えていない。むしろこう教えている。

「最も大きなことは神がその遣わした人を通じて一人ひとりに伝える御言葉を実践することだ。実践するためには学問も必要だし、その他生活で会得したことを総動員しなければならない」。

もしかするとある人は「聖書は科学と矛盾するのではないか」と言うかもしれないが、安心してほしい。NHC、ひいてはキリスト教福音宣教会では文字通りに信仰することを否定している。以下は鄭明析の言葉である。

「聖書を文字どおりに信じて行なうからあまりにも難しかった。成されることもなく、実践することも不可能だった。10代の時に聖書を読んだが、生活と合わないだけではなく、衣食住の解決もできないし、助けにならないと思った」。

鄭明析が二十年を山に通って祈りの生活をして解いた大きな秘密の一部が、聖書はその時代に合わせて書かれていること、および聖書は比喩で書かれていることである。

例えばヨシュア記で「日が留まった」と書かれているが、これは当時の地球中心の見方でもあり、同時に神がヨシュアの軍に与えた無我の境地とも取れる力と「雹により敵軍の半数以上を討ち滅ぼされた」助力の両方によって恐ろしく短時間で決着をつけた事実を表したものでもある。

もし興味があれば是非NHCで聖書について学んでもらいたい。

さて、長くなったが、このような感じで今回はNHCが勉強を必要なものだと認識していることについて書いたが、勉強だけに留まらず、仕事についても結婚についても同様である。中心は神を愛する、その一つに尽きるのである。

「信仰生活だけでは食べて生きるのが難しいでしょう。社会生活も頑張ってほしいし、職場も一生懸命通わないといけないし、時になったら結婚もしないといけないだろうし、結婚しながら神様に仕えて生きながら愛して生きることです。愛していく生活です」。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。