CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
聖書

功績

海外に来てからというもの、母国にいる祖父母と母を通じて話す機会が多くなった。祖父母は以前母国で会った時に比べて幼子のような無邪気な印象を受けるが、それは一方ではかつて彼らがさまざまに考えを巡らせて生きていた時には定まっていた精神が齢が進むと共に緩んだ姿にも取れるものである。とても大きな反応と笑顔にかわいらしく思えもするが、同時にどこかはかなさをも感じてしまう複雑な心持ちで対話をするひと時を過ごす。

人はこのように一生の終わりにはふわふわと漂うようにその精神と姿が変わりゆくものだろうか。その人生の最後の輝きを見ているかのようであり、そうして彼らがやがて先祖たちに連なる日が近いことをどこか感じざるを得ない。彼らと対話するたび、いつも一言でも神を信じるようにとそれとなく伝えるように心がけてはいる。しかしそれが彼らにはどこまで真剣なものとして受け止められているだろうか。私の心にいつも浮かぶ唯一の懸念は彼らがその日を迎える前に神を呼び求めることができるかどうかである。キリストのことを話したとてどれほど理解できるものだろうか。永遠な命とは神と神が遣わしたキリストを知ることだというのに。

無論彼らは時代の神の花嫁の祖先として神から憐みを受けることは保証されている。しかしその保証が永遠に彼らをつなぎとめるわけではなく、やはり霊の世界において彼ら自身が時代の救い人から御言葉を学び、その御言葉を信じて実践したとおりに姿が変わり、行いが変わり、そうして次第に神のおられる御座に近づいていくしかないのである。その一方でやはり神を呼び求めることができず霊界においてその救い人の伝える福音を受け入れることができず、彼を信じることができなければその霊の運命は暗闇に傾いていくしかない。この世に生きる人々はあまりにもは知らないのだな、「人間が一度だけ死ぬことと死んだ後に裁きを受けることが定まっている」ということを。肉体の人生を生きることはたった一度しかできないのであり、その時が救い人の福音を受け入れて信じてついて行き、神について学び、神を愛して、自らの行いを顧み、時代の神の花嫁として装う唯一の機会なのだ。霊界において学ぶことは難しい。なぜなら既に百年にも及ぶ歳月をその肉を持って生きたのであり、その体質どおりに心と考えが定まってしまっているからだ。霊界における自分の霊は自分が肉体で生きた心と考えと一体になって永遠に生きていくのであり、そこにいる自分は今肉体を持って生きている自分そのものになるのである。

彼らにも幼子の期間があっただろう。好奇心を抱き、夢を抱いて駆け回った期間があっただろう。そうして親となり、子供を産み、子供を愛して育てて過ごした期間があっただろう。しかし、ああ、こうして誰もが終わりを迎えなければならないのだ。人生において何が成功か。この百年という長い一つの期間、一生という歳月をかけて何をしたなら成功だと言えるのか。キリストに出会い、神を知り、霊の世界を知り、救いを受けて生きる私は思う、「神を見出したこと」、それが最も大きな成功だろうと。そしてただ神を見出すのみならずキリストに出会い、神について知り、神を愛して自らを清く装って救いを受けたうえで人間の創造の御旨を成して生きたならそれ以上の人生における成功はないのだ。

「たとい人が全地をもうけても自分の命を失ったら何の得があろうか」。

二千年前にイエスが語られたこの言葉は今に至るまで変わることなく存在し続けている。富を蓄えるからといって死を避けられるわけではない。金持ちも何一つ特別なことはないのである。ただ永遠な命の問題を解決してこそ肉体が死んでも霊が命に入り、永遠に享受して生きることができるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。