今日は走る中で酸欠に陥った。年末から日々脚の柔軟をしているゆえ序盤から足がよく動いたせいかもしれない。最近になってようやく関節が外れそうな感覚から筋が伸びる感覚に変化するようになり、細胞が生まれ変わってきたと実感していたところである。また冬場の冷たい空気のうえに今日は珍しく雨が降らずに乾燥していたせいで肺に影響が出たのかもしれない。また今日は風が強く吹き付けていたために体温を奪うと同時に行く手を阻んだことも一因としてあるだろう。何はともあれ、さまざまな要因が絡み合って酸欠状態を生み出すこととなった。
恐らくこの類の息苦しさは初めてではないかと思う。息を吸うけれども酸素が思うように入って来ないのである。走りながらもしや過呼吸になりかけているのではないかと思い、息を数回吐き出してから大きく一度吸い込むように呼吸を調節するも改善することがなかった。脇腹の痛みならば命に別状はないが、呼吸困難になれば命にかかわるゆえ少々不安に駆られながら走り続けた。
主は扇風機一つしかない夏場は蒸し風呂のような暑さになり、冬場は窓をビニールでふさぐ以外に寒さをしのぐ方法もない古い監獄で過ごされながら祈りの生活をされ、他の囚人たちはその過酷な環境下で病に倒れて死んだ者もいると証された。しかし彼は自らが祈りに深く入ることで霊界に身を置いて生きたゆえに影響が少なかったのだろうと語られた。私はその事を思いながら霊界に入って走ることができるようにと祈ってみたところ、若干息苦しさが和らいだように思えた。それでもいつもに比べて息苦しいことには変わりはなかった。
今日もそうして苦しさの中で聖霊と共に走ることを考えたが、最後の一キロあたりから神が降りてこられて私の肩を抱かれるのを見るようになった。めったに見ることのない神が来られたことに力づけられ、わずかに苦しみが薄れるようであった。神は「不安を捨てなさい」と話され、また最後の一本道では「急ぐ必要はない。まずは家に戻ることだ」と私に語られた。
息苦しさを感じながらふと四十人近くの人が酸欠で死んだ事件が頭に浮かび、彼らもこのように息を吸っても酸素が入ってこない苦しみの中で恐怖と困惑のうちにあえぎながら死んでいったのだと考えるようになった。その国では神を信じることが許されていない。経済を良くしていると強調される一方で、その国で窮乏する人々が意を決して国を飛び出してそのように無惨に死んでいったことを思うと隣におられる神に祈らざるを得なかった。経済が良くなることと強権的な統治の正当性は全く関係がない。神は行ったとおりに得るようにこの世を創造しておかれたゆえ、経済に投資をすれば誰でもそれなりに得るようになっている。この国においても自らが富を得るや高慢な言葉をもって人々に自らに倣うようにと主張する者の声が大きく響くが、それはこの国の人々が人生において何が価値あることなのかを見出せていないゆえだろう。強権的な統治および神への不信と経済成長の間の二択ではない。神を信じる国はむしろもっと栄えるだろうし、そもそも真の豊かさに関して言えばそれは経済とは関係がない。
家の駐車場に無事にたどり着き、神にやや倒れ掛かりながら感謝を捧げた。しばし歩きまわりながら体を休めているうちに神はその場を離れて昇っていかれた。その昇っていかれる姿を仰ぎながら、全能な存在でありながらこのように御自ら降りてこられて低き私を助けられる神に栄光を帰した。
(家に入って鏡を見ると酸欠により目の周囲にチアノーゼが現れていた。酸欠により頭痛もした)。
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