サムエル記にはサムエルが自身の生涯の潔白を神の前で証明する場面がある。
「私が今に至るまであなたがたのロバを搾取したことがあるか、だまし取ったことがあるか、まいないを受け取って裁きを歪曲したことがあるか、またあなたがたを抑圧したことがあるか。見よ、私はここにいる。もしそのようなことがあったなら訴え出よ。神の前で、また油注がれた者の前で私はそれを償おう」。
このような身の潔白に関することだけでなく、さまざまに神を証人として話すというのは決して易しいことではない。神は自分が嘘をついたときには他の人は誰も知らずとも自らは「自分は嘘をついた」と知っているのと同じくそれを知っているのだという。預言者エリシャも使いのゲハジが自分に黙ってシリアのナアマンに病を癒した報酬を受け取った時にはゲハジに対してこのように言ったとある、「『あなたはどこにも行ってません』と言うのか、私はあなたがナアマンから報酬をもらった時にあなたの隣にいたではないか」。
私は生まれながらの信仰者ではなく、人生の中で偶然のように人を通して神に導かれた者であって、導かれる前は言うまでもなく多くの罪を犯したし、導かれてからもたびたび程度の差はあれど罪を犯して生きてきた。今も日常の中でふさわしくない行いをしたりふさわしくない考えを抱くたびに悔い改める日々を過ごしている。無論福音を聞いて急に転換してこのように認めるようになったわけではない。日々御言葉を聞いて聖書を読みながら神に祈りを捧げ、それが人間的な自分の考えとは異なるより理想的な形で成されるの見るたびにその御力を認めざるを得なくなってのことである。罪を犯せば悔い改めるまで物事はうまくいかず、真実に祈って準備したものに関してはいつも報いてくださり、勝利し、平安も得たことを幾度となく経験するうちに徐々に神を畏れるようになった。
サウルもダビデもソロモンも「~でなければ神が幾重にも私を罰せられるように」(”May God do so to me and more also.”)と祈ったが、それは恐ろしい祈りだ。なぜなら神は実際にそのように行われるからである。彼らのような信仰者であればあるほど自分が何を言っているか分からないはずがない。(まして「あなたが正しく私が間違っていれば私が死に、私が正しくあなたが間違っていればあなたが死ぬ」などと祈るのはあなたがメシアでなければ絶対にやめることだ)。
ネヘミヤは手記の中で「神よ、聖霊よ、私がどのような思いでこのことをやったのかについてはあなたが証人です」と何度も書いている。この祈りもまた真実に生きて初めて捧げることのできるものであって、自分の考えで行ったことについては神に保証を求めることはできない。イエス様でさえ「私の思いのままにではなくただ父の御心どおりにしてください」と祈られたのだ。しかし上記の祈りもこのエレミヤの祈りももろ刃の剣のようなものであって、自分が神を畏れて真実に行ったことに関してはこれほど心強い祈りはないものだ。なぜなら自分が正しければ全てを掌握される神が証人となって自分の側に立ってくださるからであり、一方でこれがたとえ無知による過ちであったとしても、無論間違ったのだから該当する報いは受けるにせよ、神は必ず真実さを加味し、慈愛をもってその間違ったことを悟らせられるからである。
「神は聞かれる」、これは祈りの大きな原動力である。ダビデは詩篇の中でこのように言った、「主に罪を認められない者はさいわいである」と。私自身とても背筋が凍る思いがした経験が幾度かあるが、ある人とのやり取りの中で聖霊に祈りつつメッセージを送ったのだが、後で読み返した時になんだかとても冷淡かつ鋭い言葉のように思えて、「これはもしかしたらまずいことになるかもしれない」という予感がした。それで祈ってみると、私の祈りが虚しく響いたのである。誰も聞いている感じがしない、そこに誰かがいる感じがしない、ただ自分一人で言葉を発しているかのような虚空を感じたのである。それは何と恐ろしい体験か、到底言葉では表現することができない。全ての祈りは聞かれてこそ叶いもし、赦しも受けられる。それなのに聞かれもしないのだから自分という存在が一切神の手を離れて放り出されたようなものだ。その時私は明確にアダムとエバの堕落の話を悟るようになった。
彼らは周知のとおり堕落してエデンの園を追い出されることとなった。それはパウロによって「一人の人によって全人類に死が入った」と記述されたとおりである。すなわち霊的に死が入り込んで人と神との疎通が途絶えたことを意味する(通信のできないスマートフォンは死んだものであるのと同様の表現だ)。そこから千六百年経ってようやくノアの時に再び口を開かれるまで神は人を顧みられなかったと書いてある。すなわち神を怒らせると対話ができなくなるのである。幸い私はそれを悟って悔い改めた後に再び感覚が戻るようになった。
先の祈りについても、ダビデ自身いつも神を賛美して栄光を帰する人間であったから、罪を犯した時に栄光を帰しても受け取られないことの虚しさ、また悔い改めてもその赦しを受けられないことの恐ろしさを悟っていたのだろう。詩篇は「ダビデの詩的な表現ではなく真実な告白」なのである。
またもう一つの事実としてモーセはコラの徒党がモーセに敵して立ち上がった時、「彼らの捧げものを顧みないでください。私は誰からもロバ一頭すら取ったことがなく、抑圧したこともありません」と神に祈り、また「私につぶやくのは神につぶやくことである」と旧約における仲保者の位置を示した。イエス様もまた「私は道であり、真理であり、命である。私によらなければ誰も神のみもとに行くことはできない」、「私を見た者は神を見たのである」、「私の言葉は永遠な命を与える」、「あなたがたは私のいるところに来ることができない。自分の罪のうちに死ぬであろう」と話され、ご自身が神が臨む人であることを示された。すなわち人々は彼らを通して神につながるという側面があったのだ。サムエルの話に戻ると、サムエルは冒頭の祈りと同じ文脈の中で「神はギデオン、エフタ、私などを送って周囲の外敵からあなたがたを守られたのにあなたがたは神が治められることを認めることができずに王を立てよと言った」とイスラエルを諭した。神に聞かれるためには神を畏れるだけでは満足ではなくその遣わされた人にも神が臨んでいることを悟って畏れなければならないのである。
聖書を読むとたくさんの祈りが記録されているが、まさに真実な信仰者がどのような心で神に接し、何を考え、どのような生を生きたのかが見えてくる貴重な記録であると私は思う。