年の瀬が近くなるとイエスの誕生を祝して世界中で栄光を帰するが、このイエスについては使徒ヨハネが福音書において「神は一人子を遣わすほどにこの世を愛してくださった」と語ったように、神が愛ゆえに人々に救いに至る言葉を語られ、また病を癒やすなどさまざまな重荷から解き放ってくださろうと遣わされた方である。
イエスが生きて福音を宣べ伝えられた当時、イエスはユダヤの宗教人たちにこのように言われたことがあった、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書は私について証をするものである」。ユダヤの人々は救いを得るためにどのように生きるべきかを、聖書に記録された律法を守り、割礼を施し、生贄を捧げ、断食し、祈るなど、さまざまな行いのうちに求めていたのかもしれない。
しかし、イエスがご覧になったとき、創世記から当時に至るまでの聖書の記録の核心はキリストに関する預言と、神が常に預言者や士師、はたまた他国の民を遣わしてイスラエルに話され、彼らを助け、あるいは裁かれたということであった。無論「神は風をしもべとし、火を御使いとされる」とあるように自然をもって働きかけることもあったが、それらが単体で用いられることはなく、その中心にはいつも神の言葉を受けて働く人間の姿があった。
すなわちイエスは、聖書を調べる意義は律法に答えを見出すことではなく、神が遣わす人間であるキリストについて正確に知ることでキリストに出会うことであり、それによってキリストから神と神が願われることについて学び、その教えのとおりに生きることで救いを得るのだと話されたのである(この点については使徒パウロもまた律法について「信仰が現れるまでの養育係にすぎない」と述べている)。そしてその教えはイエスが「私の重荷は軽い」と話されたように、また神が「私は新しい天と地を創造する。もはや以前のものを思い出すことはない」と言われたように、人にとっては神のしもべとして生きる律法よりも易しく、神にとっても人間との間でしもべと主人の関係を抜け出して父と子のように近く接することのできる喜ばしいものであったのである。
ところで神がなぜ人を遣わして働きかけられるかといえば、それは人は人と通じることが最も易しい方法だからである。霊である神を信じ、霊である神の言葉を聞くことは易しいことではなく、また多くの人が皆それぞれ「神から言葉を預かった」と主張して分裂が生じることのないように、神は一人の人を選んで言葉を託して人々に語られ、その人を通して御業を行われるのである。
しかしこれは同時に、神にとっての合理的な方法にとどまることなく、人が神を最も身近に感じることのできる方法でもある。すなわち人は人を通して神を迎えてその愛を知り、やがて神への愛を抱くようになるのである。
「神は人の手で造った宮には住まわれない」。ダビデから神の聖殿の建築を託されたソロモンが祈りの中でこのように語ったが、確かに神は霊であって、パウロが「神はあらゆるものの内におられる」と言ったように神は天地を貫いて観察して治めておられるゆえ、物理的な建築物の制限を受けることはない。しかし、これもやはり神が宮という象徴を通して人のうちに住まわった愛の表れと見ることもできる。
「私は彼らの神となり、彼らは私の子となる」、聖書でキリストの来臨の時を指して(キリストが再び来られる時も同様に)このように語られた神の心は、天地を創られた時から変わることなく人と共にあろうとする人への愛なのである。
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