CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

松の種は小さいが、その種がやがて千年を生きる巨木となるように、我々人間も細胞どうしが出会い、胎を出て、やがては万物を治める存在となるように、神が行われることは皆小さく始まって後には壮大な歴史を成すようになるのだと主は言われる。それゆえ小さなことを疎かにしていては後に来る大きな機会を逃すようになるのだそうだ。

新しい場所で仕事を始め、多分に外的な要因によりこれまでとさほど変わらない道具を使いながら早くも倦怠感に襲われていた私はこれを聞いて思った、「この退屈な仕事も忠誠を尽くせばやがては私が希望していたことができるように機会が巡ってくるのかもしれない」。

ところがその神の言葉を聞いたあくる日、通常より三倍早く任された仕事の終盤に差し掛かっていた私に舞い込んだ依頼は、誰もが手を付けたがらない、私と同輩が担う領域の周辺の古き悪しき厄介な技術を用いた環境整備であった。

かの言葉を話された時、主は同時にこのようにも言われたのであった、「やりたい仕事だけをやって栄えただろうか。神はたとえあなたが気に入らず、やりたくない仕事であったとしても取り組むことを強いられることもある。それによりご自身の御心を成し遂げられるからである」。

確かにその周辺を整えなければ新たに作成したものも投入できない。しかしそれは私自身が手を付けるものではなくその分野に属する人間のやることだと思っていた。私はその技術に精通している者ではない。しかしそれがいかに醜いものであるかは日ごと隣り合わせで働いているために十分に知っている。神は私がそれを身に着けることを期待しておられるのであろうが、少々私を買いかぶりすぎているように思えるところもある。しかし「神と聖霊が共にされるゆえ必ず栄える」と主はまた言われるのであった。

神に委ねる人生は実に不思議だ。人間らしいかすかな期待を寄せてあの方向で栄えることを夢見れば、神はこの方向に行かせて手に汗して地を耕すようにされる。物を知らぬ人は信仰を「神頼み」と蔑むが、むしろ神に出会ってから自分の望みどおりに道が開かれたことは一度もないと言ってよい。しかしそれは失敗したことを意味するのではなく、自らが思いもよらぬより優った道へと導かれたのであった。たとえ自らに選択の余地がある状況でさえ、神はさまざまに状況を動かされることで認識や心象が変わるようにし、遂には自らが初めに望んでいたものを放棄するようになさるのである。学びの場しかり、働く場しかり、引いては愛する人に至るまで、神のご計画がいかに奥妙であり、かつ雄大なものであって、同時に自分という人間の考えがいかに浅はかであるかを後の日に回顧するたびに思い知らされるのである。

その身一つだけをもって始められ、四十三年の歳月を経て今や七十を超える国の人々から「救い主」と呼ばれて尊ばれるその方は言われる、「自分の思いどおりになったら大変だ。神に委ねなさい。必ずうまくいき、栄えるということを信じて熱心にやりなさい。神が私たち人間をご覧になるとき、神は人がどれほど神に信頼し、かつキリストに信頼するのかを見ておられるのだ」と。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。