仕事がよくできると自負するようになると職場で安く雇われて働くことがもったいなく思えるようになる。細心の注意を払って丁寧に仕上げたとしても、その成果はその職場では欠かせないものになるかもしれないが、自分にとって有益はない。ただ作る過程で少し学んだというだけである。するとその注意深さや真心をもって同じ時間を自分のために何かをやる時間に充てたらどれほどやる気も出て良いものを作り出せるだろうかと考えてしまう。自分という人間の能力と有限な時間をどこに投資するのかということである。
自分の価値を分かるほど、より価値のあるところに自分の能力を用いたくなるものである。この心理は時間の制約というものから来るものである。もし仮に無限に生きられるとするならばのんびりとさまざまに経験しながらそれなりに楽しみを享受しつつ移っていくこともできる。しかし有限な肉体はその聡明さも時間と共に老いていき、やがて働く力はなくなっていく。稼ぐことのできる時期に稼がなければならないのである。
これは肉の世界の事柄だけを言うのではない。永遠に生きる霊の世界を考慮するならば、この肉で生きるうちに多くの義をもって天に宝を積んでおかなければならないのである。この世で自らが主人となって営むものがあり、全て自分のものになるから甲斐があるといって肉のことに溺れて生きたところでそれもまた有限なものである。地球という世界もいずれは消滅する有限な存在であって、たとえ人類が総出で地球の上に理想世界を造ろうとあらゆる労苦を積み重ねたとしても、やがてはそれも跡形もなく消え去る日が訪れる。すなわちそれは砂の城を積むに等しいものなのである。
だからといって肉の営みそのものを否定しているわけでは決してない。というのは、我々全ては肉の世界で生まれ、肉の世界を通じて神との経緯を築き、愛を築いて生きていき、肉の世界において歴史を広げていかなければならないからである。しかし自らの価値を悟り、天の国の価値を悟るほどに、あらゆる営みにおいて自らの有限な時間と能力と熱意を根本の無限な世界に中心を据えて投資しようとの考えが生じるようになるということである。
そうは言うものの、人が自らその道を悟ることはできない。低いところにおる者は決して高いところにあるものを見ることはできないからである。人が霊界に行くことは難しい。しかし我々には神と聖霊から永遠な命を与える言葉を託された主がおり、聖霊もまた今この時は最も近くに存在する壮大な霊界の実相として我々に共にされている。自らの考え、思考を空けるとき、聖霊は「あなたが探す道は近くにある」と話され、我々を導かれるという。
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