信仰の土台は御言葉と実践と祈りである。なぜ御言葉がなければならないのか。御言葉がなければ何が義であり、どのように救いが成され、どのように復活が成され、またその先の携挙が成されるか分からないからである。キリストが生きている期間は神が人たるキリストの肉体と共にさまざまに「行ったとおりに報い」ながら、かつ新しい御言葉をもってその速い人の雲に乗って歴史の礎を築かれる時だからである。その目まぐるしく移りゆく情勢に人はついて行くことができず、ただ神とつながっているキリストから御言葉を聞くことによってのみ歴史の流れに乗っていくことができる。ここでは特にキリストが地に遣わされている期間について述べたが、キリストがやがて地から取り去られた時もキリストが残された多くの御言葉を持ってその都度道を見出すのである。
また御言葉を聞いたとしてもそれに従った行いがなければその御言葉によって得るべき何か、避けるべき何かに出会うこともなくその都度環境から来る刺激に反応しながら漫然と流されて生きていくようになる。というのは、自らの意向のままに事が成ったとしても「自らの力で何かを得た」という認識にしかつながらず、また得たものもやはり自らの水準どおりに得たのであり、避けたものもやはり自らの認識の範囲で避けたのであって、何か特別に神を認識することも起こり得ないということである。人が対話をするときは自らの生活で起こったことを話すのであって何もないところから話を作って伝えるのではない。それは人との会話の中しかり、神との対話、すなわち祈りにおいてもしかりである。
そして祈りがなければ生活の中の感動も感動で終わり、それを入口として神の愛と心情を悟ることもない。悟り、知恵というものは生活をもとにした神との対話が深まる中で天から授けられるものだからである。神の心情や実情を悟った時に自らが悔い改めるべき事柄も見出すようになり、より高い水準で自らを神の御前につくろうという心が生じるようになり、行うべきことを見出すようにもなる。
人はそのようにして一生の間神の前に自らを低くし、常に自らの体を生きた捧げものとしてより良く装って生きていく運命であるが、時には歴史が進む中で姿を消した者たちが思い浮かび、長い一生の中で自らもまた神に背を向けはしないだろうかと突如として不安に襲われることがある。彼らもまた神に対し熱心であった時期があった。しかしある時出会った何かにつまずきを覚え、徐々に神と歴史に対する疑念に駆られ、しまいに深い暗闇に飲み込まれてしまったのである。
キリストに誰よりも近く学び、それと共にあらゆる苦難を受けてもその信仰によって打ち勝たれた高貴な方は言われた、「自らに迫る困難によって心が弱くなる時も自らが真実に行ってきた事柄だけは否定できなかった」。それが単なる熱狂によって、あるいは自らの栄光を求めて行ったことであり、主と神と歴史に対する確信によらないものであったならば一時の錯覚として否定できただろう。なぜキリストを認めるに至ったのか、認めるまでのさまざまな御言葉による経緯を思い返してみたときにはそれが自らの家を支える土台となるのである。それだから昔イエスは言われたのではかったか、「私の言葉を聞いて行わない者を砂の上に土台を建てる愚かな者に譬えることができよう。洪水が襲ってくるとたちまちその家は土台ごと押し流されて何も残ることがない。しかし私の言葉を聞いて行う者は岩の上に土台を建てる者のようなものであって洪水が襲ってきても揺らぐことがない」。
私自身もまた一人夜道を走る時に昔話したある人が浮かんできて不安が私を捕らえたことがあった。「『学生の時は皆と共について行くが社会に出た時には信仰があらわになるものだ』と言っていた者よ、あなたは今どこにいるのか。あなたの兄弟もまたどこへ行ったのか。あなたもあなたの兄弟もあなたを生んだ者にキリストを証し信仰を植えたのではなかったか」。走りながら聖霊を呼び求め、聖霊が私をつかんでくださるようにと祈った。直接神と共に行われるゆえ揺れることのない方が私と共に生きてくださることを願った。そうしてやたらに感謝を捧げようと感謝すべきことを列挙して栄光を帰してみたところ、それは何か肉のものを得たことよりはむしろ肉のものによる束縛から解き放たれたことによる喜びであったということを見出すようになった。
この世で人が誇っている知識や権勢は全て肉が生きている時だけ必要なものであって、肉が終われば必要のないものである。それらをもってしては天国の土地を買うことはできない。ただ神の恩寵によって賜った天における永遠な都と神と共に暮らす生だけが真の喜びであり、真の所有なのである。
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