CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

平和の人

誰かと生活をしていればその生活習慣が全くもって合わないこともある。人によっては与えられた住まいの住人は皆「独身者」となっているものの一つ屋根の下で二組の夫婦もどきと共に暮らさねばならない試練も訪れる。日々薄い壁の向こうから聞こえる騒々しい「夫婦」のおしゃべりを耳にしながら仕事に従事しなければならないが、他に与えられる住まいはなく日々平和の心を聖霊に求めるほかない。たとえ日付が変わってから帰ってきた「夫婦」が玄関でおしゃべりをし、台所でドアを閉めることなく物音を立てようと、また疫病が流行する中で一組の「夫婦」が明け方の五時まで友人を招いてパーティーをして睡眠を奪われようとも(翌日は聖なる安息日であった)自らが寄留者に過ぎないからには彼らを追い出すこともできない。黙って会社にパーティーが催された旨を報告して後日近隣からの苦情として騒音について注意を促してもらうのがせいぜいである。使用後にろくに洗わぬ歯ブラシにより朝晩に色のついた丸い染みが浴室の白く塗られた台の上に増えていこうと思わずしかめ面をしつつも彼らがいない間にトイレットペーパーを濡らしてごしごしこすって拭き取るほかない(「白く塗られた」と言ったのは、拭き取る時に薄く塗られたペンキがビニールのように剥がれて露わになったことである。手を付けることなく放置していたならそのまま白い台だと思い込んで惜しんだだろう)。浴槽の縁にずらりと立ち並ぶ「夫婦」の洗剤群がわずかな接触で崩れるたびに憤りを覚えても人に憤ることはできず神に正義を求めるのみである。洗浄用の水が補給されるまで時間がかかるゆえにその場で人手によって流されることなく放置されて「何か」を覆うように便器に漂うトイレットペーパーや、排せつ後に汚れたままのトイレを見てもいつも聖殿のトイレを掃除するように寛容の心をもって掃除して清潔さを保つほかない。GENGAのように積み重なる洗い終わった食器を見ても天を仰いで祈ってその下に埋もれた乾いた食器を探して片づけてなんとかスペースを作って自分の使用した食器を置くしかない。ある時そうしていてGENGAから滑り落ちた皿の縁が欠けたときには無念さに歯噛みをするが、そうだ、食べるのに支障はないのだ。毎日洗剤が付着した食器が乾かし場に置かれているのを見かけては黙って洗いなおしてやるのが平和の人の行いであり、机の上やシンクに放置された汚れた食器や二日間放置されたマグカップになみなみと満ちたプリン状に変化したカフェモカか何かも神が「あなたが洗いなさい」とおっしゃるからには「このようにして炭火をこうべの上に積むのだ」と言い聞かせて御言葉に従順して行うのが知恵を受けた人の行いである。(食べ物をキッチンに恒常的に放置していて一時家にネズミが出没して騒動になったが、後日そのネズミを捕獲した後彼らは何事もなかったかのように再び放置するのであった)。階下でリビングのドアを開け放して愉快にテレビを大音量で視聴するたびイヤホンをつけて耳をふさぎ、下に降りた際には静かにドアを閉めることが相手の愉快な空気を乱すことなく静寂を手に入れる手段であった。

この時代も平和の王として来られた主は言われる、「平和にすることにより多様な義の実を刈り取るのだ。それは人にもなり、物質にもなり、社会的なものにもなる。岩や木も価値を悟る者が探し求め、平和もその価値を悟った者が追い求める」。

このような環境に置かれたとしてもそれは神が平和の心を身に着けるようにと練達するためになされたことであって、その試みを終わらせる方法は神が望まれる平和の心を身に着けること以外には存在しない。それを悟って徹底した祈りにより正義がなされることを祈りつつも平和の心を日々追い求めるようになったとき、神は周囲を取り巻く大きな状況を変えられ、平和のうちに一組の「夫婦」が自ら一時的に住まいを空けるようにされるのである。そればかりでなくもう一組もリビングのドアを閉めることを覚えるようになり、もはやフットボールの中継と興奮した観衆の歓声は聞こえなくなった。人と対話するにしても何をしても「神は最後には平和にする人の肩を持たれる」と主は言われる。

話のついでに触れると、「自ら」というのは神の行われる最も大きな御業の一つである。全能者である神と聖霊は人間に考えを入れて働きかけられるからである。禍を免れさせるときも「ふと気が変わって」倒壊する百貨店に行くはずのところを取りやめて知人を訪ねるようにされ、あるいは使命を賜るときも価値を悟って興奮して楽しく積極的に行うようにさせることで途方もない一つひとつが数十トンにもなる巨石群を恐怖も感じることなく重さに耐えかねてたわむクレーンを使って積み上げて神の構想を成すようになさる。反対に使命を奪う際や祝福を奪う際も自らそれを厭うようにさせて放棄するようになさるのである。

争いのあるところにサタンが来る。サタンは一層憎しみや嫉妬、高慢を人々の心に入れて互いに争わせて地上から平和を奪い取る。それは子供どうしが争うことで親が悲しむことを知っており、人間の創造に込められた愛の目的を破壊することで人間創造の御心に異を唱えた自らが神の知略に優る者であると証明するためである。

キリストは命を救うために遣わされた者として最後まで平和の道を歩まれる。「今私が父に願って天使を十二軍団以上も遣わしていただくことができないと思うのか」。二千年前、キリスト・イエスもまた偽証や嘲笑、暴力に晒されながらも赦しの道を行かれ、その死に至るまで貫かれた絶対的な従順の条件によって傾いた時代の全ての罪を清算し、旧時代の無知につけこんで人々にキリストを不信させたサタンを退かせた。イエスが生きておられた当世には進まなかった宣教が使徒たちによって驚くほど急速に進んだのは使徒たちがイエス以上に説教がうまかったからでもなく、イエス以上にしるしを起こしたからでもない。キリストによる贖いによって罪の鎖が解かれたことで人々の霊が福音を伝えるとおりに命に出てくることができるようになったゆえである。イエスが息を引き取られた直後に「墓が開けた」とあるのは肉による死人が墓から出てきた「甦り」ではない。旧約全体を覆っていた罪による死のもとにあった霊たちがキリストの十字架の条件により解放されたことを言っているのである。

この時代も「バビロンが倒れるまで七十年である」とあるとおりに光が来られて七十年が経とうとする聖書に記された携挙の日を前に、主は度重なる断食と摂食で弱り切った肉体ではそれ以上何も差し出すものがないと見るや自らの霊魂を地獄へと差し出されて時代の全ての罪を赦された。人々が悔い改めるとしても悔い改めきることのできない過去の罪も全て問いただすこともなく清算されたのであった。

その人は今も教会に来なくなった子供たちや青年たちに電話を掛け、義人に接するかのように接しながら彼らの持つ誤解や疑念を解き、その尊い命たちを神のもとに呼び戻される。脅しもなく、喝を入れることもない。しかし神の知恵をもって豊かに実った穀物を刈り入れるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。