新約時代、真理の光をもって善と悪を裁きに来られたイエスは「義を行う者は自らの義なることが現れるために光に来ようとするが不義を行う者は不義が現れることを恐れて光に来ようとしない」と語られた。誰しも初めてその御言葉を聞く時には自らの罪が照らされる経験をし、それゆえそれを避けるように遠ざかる者もおれば、それでもその御言葉の真実なることを認め、神を認め、あるいはその祝福にあずからんとして自らの罪を清めようとする者がいる。しかしそうした過程を経て主の群衆に加わった者の中でも同じ御言葉を日々聞きながらある人は喜び、神に栄光を帰しながらますます火がついて証するが、ある人は「罪悪感を抱く」と口にする。
福音についてはパウロが「良き知らせ」と呼んでいるが、この良き知らせは同時に「悪い知らせ」にもなるのである。このことについてはモーセが「私は今日あなたがたの前に祝福と呪いとを置く」と語ったとおりである。すなわち神の言葉は「私を愛する者には千代にわたって祝福を施し、私を憎む者には三,四代にわたって呪いを施す」であって、愛するとはすなわち御言葉を行うことであり、憎むとはすなわち神の言葉に背くことを指す。
神はいつも「このようにせよ。そうすればあなたがたは幸いを得るであろう。しかしそれに従わない者はそれが罠となって禍を受けるようになる」と言われ、その御言葉のとおりに人間の運命が左右されてきた。ある時は神の言葉に聞き従うことにより禍を免れることが祝福であり、その御言葉を軽んじて聞き従わなかったゆえにその禍を免れられなかったことが裁きであった。ある時は御言葉に聞き従って行うことで神が賞を授けて願っていたものを得ることが祝福であり、御言葉に聞き従わなかったことで神が祝福を与えずに願っていたものが得られない、あるいは剥奪されて他の者に与えられることが裁きであった。しかしいずれにせよ神はご自身の御心にかなう全ての人にとっての良きことのために愛をもって語られたのであり、恣意的に人間に興を要求されたのでもなく初めから害されようとして語られたのでもない。
かくして御言葉を受け入れた者のうちで行わなかった者が落胆するならば、それは祝福が遠ざかったことを見るからであり、あるいは取り戻すことが非常に難しいのを見るからである。それはさながら自らに差し出された珍味が日ごと腐りゆくのを見るのと同じである。それを差し出された時に温かなそのごちそうを食べた者はその美味なることに驚き心が酔いしれるようになるが、それを食べずに放置して腐りゆくのを見る者はその姿の変容に心を痛めながらも食べることもできず、ただ口にしていたなら得ていたであろうその味と、たいらげていたならば目の前には片づけるべき皿だけを残していたその清潔感を思いながら苦しむばかりである。むしろいっそのことその料理を初めから受け取らなかった方がましなのである。
これはより特別な御言葉にのみ該当するのではなくより拡大すれば生活の中の小さな不従順にさえ該当するものである。神は小川の水をどのように飲むのかをもってミデアン人の十万の大軍に立ち向かう三百人の勇士を選ばれたように、その小さな行い一つを見てその人柄を見抜かれる(これは人間のうちでも皿の洗い方一つ、グラスを片付けることなく次々新しいものを持ってきて手元にためること一つ、食器の乾かし場で乾いた食器の有無を確認せず次々濡れたものを投げ込んであふれさせること一つ、シンクに食器を放置してテレビを見に行くこと一つ、排せつ後に汚れが放置された便器の状態一つ、言葉づかい一つ、文章一つ、連絡に対する反応一つ、物をしばしば無造作に置き放つこと一つ、話し方のトーン一つ、日々家の中で階段を駆け下りたり駆け上がったりすること一つなど小さなこと一つをもってその気質や人柄がある程度把握できるようなものである)。すなわち小さな不従順、例えばある物が壊れて非常な不都合が押し寄せ、かつ時間もなく焦りがこみ上げた時にはっきりと答えを受けるまで祈ることをせずに少しばかり祈って明確に答えを受けないうちに決断を下して行動してしまうなどのことにより物質の面でも損を被ることになるが、何より恐ろしいのは神がそれをもって「切迫した場面で冷静に神をつかむことをしないその気質」を見抜かれてその人に計画しておられた大きな御心を移してしまわれるということである。この壊れた信頼を取り戻すことがどれほど難しいだろうか。単に言葉一つで回復できるものではなくそれに該当する条件を立てて二度そのようにしないことを示す条件が必要になる。
主は言われる、「清潔にすること一つを見れば信仰においてもそのように行うことが分かる」。またご自身が足を運ばれる先々で天国を成し、かつ人々の霊魂を救って天国へと導かれる天国そのものとも言える主は福音についてこのように言われる、「福音を聞いたならば神があなたの心に来られたのである。それをぞんざいに扱う者は神と聖霊と主に対してそのようにするのである。福音を貴重に思うときに神と聖霊がその人に臨まれるであろう」。
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