ある人が神の御心を成そうともがきながらも、共に御心を成すべき相手と心が通じずにひどく苦しみ、嘆いていた。その人は相手を前に怒ることもなくただこらえるばかりであったが、怒りを発することをもはや覚えていなかったのかもしれない。
神の前に共に進み出ることを断られ、休日でありながら共に食事をするわけでもなく、自らの領域を犯す者に頑なであり、かつ常ながら耳をふさいだ相手に話しかけるも容易ではなく、心を決めて声を掛けるも返るのは背中越しの一言だけであった。
彼は悲嘆に暮れたが、一人の人がその人の嘆きを聞いて駆け寄った。その人は特に解決しようと言葉を話すわけでもなく、ただ目の前の人の言葉に耳を傾け、彼自身の経緯も話しながらその労苦を分かって労うのみであった。
しかし聖霊はそこに奇しきみわざを行われた。次第にその人から冗談めいた無邪気な発想が出るようになさり、それにより嘆いていたその人も、ただこらえるよりはいっそ相手の怒りが引き起こされ、そうして平穏が壊れるとしても、自らも楽しみながら現状に積極的に変化をもたらす方向を探るようにと変わっていったのであった。
その人を訪れた友人は何かを教えに来たのではない。しかし友人の嘆きを見て愛ゆえにその人のもとを訪れ、結局はそこに神と聖霊が働かれてその後事態がある程度好転するようになったのである。もしそこに教師が現れたとしても解決することはできなかっただろう。なぜならその人はその教えのためにもがいたのだから。
イエスは神を愛することを教えられたが、また同時に隣人となることをも教えられた。真理によっては解決できない事態もある。それを解決できるのはただ愛を持った隣人の存在、そしてその上に働かれる三位の愛なのかもしれない。
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