喜ばしい時、苦しい時には人と話を分かち合いたくなるが、それは喜びは二倍に、苦しみは半分になることを期待するからである。しかしながら、度々経験していながらもまた同じことを繰り返して直面する事実は、多くの人は自分が期待したよりも分かってくれないということである。自らにとってはうれしい知らせであり、人もまた自分と共に喜んでくれるだろうと思って話すが人は驚くこともなく一言うなずいて終わることがあり、自らの苦しみを吐露して話すも人はその経緯を理解できずに表面的な事実ばかりを見て「それほど大したことではない」と口にする。
話が通じる、通じないという点で言えば、世において「話が早い」と言われる人々がいるが、不思議と話が早い人たちは話が早い人どうしで集まり、さほど話をしなくてもことが円滑に進んでいく。「あれ」と言えば「あれ」だと通じるのは各自の経験がそれなりに豊富で共有知識のようなものがあり、さらに会話の文脈や各自が置かれた状況を的確に把握することができるからであろう(これらの力は洞察力や悟りというものから来るようにも見える)。
これに関連して、最も話が通じるのは自分の母親であるという人も少なくない。その母親が学があろうとなかろうと、そのようなことがあるとすれば、それは上記のような能力に関連して言えば、親ゆえ子に関することはある程度分かるという土台の上で、愛する子の話に耳を傾けようとする姿勢によるところがあるのではないか。「愛とは関心である」と主は言われるが、愛するゆえに子の話した背景を理解しようと努めることで子の言わんとすることをくみ取ることができるのではないかということである。
同様にまた磨かれた牧者というものも話が通じるように思われるところがあるが、それはやはり彼らが真理に通じているという土台を有した上で、真摯に人の話に傾聴する姿勢に起因するように思われる。無論人を教え、導くにあたっては目の前の人を把握しなければ成り立たないのではあるが、根本的には一人ひとりを神が愛する命として接し、自らがその牧者としてその命の管理を任されているという認識の上に成り立っているものである。
ところでイエスは「あなたのいるところへはどこへでもついて行きます」と言った律法学者に対してこのように言われた、「人の子は枕するところがない」。そしてまた言われた、「たとい人が来て私に向かって「主よ、主よ」と呼ばわり、『私たちはあなたが大通りで話している時にそこにいました』、『私たちはあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって病を癒したではありませんか』と言っても私はその者たちに向かって言うであろう、『私はあなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。もし彼にとって「ありがとう」が感謝であり、「申し訳ない」が謝罪であったならこのようには話されなかったであろう。表面的な事実を積み重ねるからといって心を通わせたと言えるわけではない。そして心が通じぬ者と愛が成されることはなく、愛が成されるのでなければ共に住まうことはできない。
この時代も主はまた「言わんとすることを分かりなさい」と話される。近くにおるからといって心が分かるのでもなく、言葉だけを聞くからといって心が分かるわけでもない。神が彼を通じて話される言葉を聞いて神について、歴史について、真理について、愛について学ぶことで共通の理解を築かなければならず、また自らもその言葉を行うことによって彼の経た道を歩まなければならないのである。
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