とある団体がポストに「今の事態はある千年前の僧侶の教えに従わないことから来る『総罰』である」という刊行物を投函した。「今こそ全国民にその教えを教えん」という見出しが派手に書かれており、上方にも「決戦」という文字が並んでいて何やら物騒な雰囲気を醸し出していた。幸い年老いた父も母も家にはおらず、私だけがそれを見て処分したが、かくも威圧的なものを民家に投げ込むことでむしろ人々が「宗教」というものをますます疎んじるということは考えなかったのだろうか。真の教えは恐喝によらず、順理にもとづいて行われて人々に受け入れられるものである。
そもそも「罰が下っている」というからには罰を下した存在がおり、それがその僧侶であるならばその僧侶に罰を下す権威を与えたのは誰なのか。というのは、人として生まれた者が自ら人の上に立つことはできないからである。その者もまた仏に帰するならばその者は仏よりも高い存在なのであろうか。その仏もまた自らより高い方を証することもなく一人の人として生きたからには権威を授けることもできないのではないか。
主はご自身が救いに関する本を著されたきっかけについてこう話された、「イエス様に『私は天国にたくさん行ってきたから天国の話を書きましょう。そうしたら人々が天国に来ようと信じるようになるはずです』と話した。また『地獄の話を書きましょう。そうしたら人々は地獄に行かないように信じるはずです』と話した。するとイエス様は言われた、「人々は天国や地獄を知らないから地獄に行くのではない。救いに至る方法を知らないから地獄に行くようになるのだ。あなたがそれを最もよく知っているゆえあなたがそれを著わさなければならない」」。
宗教の核心はその御言葉である。それは人の悟る慈善や人の考えをめぐる抽象的な概念で足りるものではない。雰囲気によってついて行くからといって救いを受けるのでもなく、神をただ信じるからといって救われるのでもなく、主を「主」と呼ぶからといって救われるのでもない。肉で百年の時を過ごして再び土へ還るべく定められている人間はなにゆえそのように生きるのかを教えることができなければならず、この天地万物がなぜ存在しているのか、そしてそれらの理知をも明かすことができなければならず、いかなる時代、いかなる民族の内であれあからさまに語られてきた霊の世界を明かすことができなければならない。常識とも科学とも矛盾することなく、数千年の宗教歴史とも矛盾することなく、世界各地に散見される救い主に関する預言とも矛盾することなく、この先預言された千年の歴史においても崩れることのない完全な教えが必要なのである。キリストはその全てでもって創造主たる神を証し、その神の御心は何か、それゆえ神が願う品性、行いとは何であるかを教え、それにより命ある全ての者に神のもとへと至る救いを与えるために来られた存在なのである。
キリスト・イエスは自らが教えられたことについて、それが人間の水準ではなく上から権威を賜って語ったということを指してこのように言われた、「私の言葉は自ら語る言葉ではなく神が私に教えられたことを語るのである」。そしてまたその確かであることを指して言われた、「天地は滅んでも私の言葉は滅びることがない」。主もまた言われる、「私が誤ったことを教えるならば私自ら地獄に行かなければならない」。人のうちで命を賭してこのように語る者はおらず、その言葉の正しいことはその働きによって確かめられてきた。神がその御心をもって天地を導かれるゆえ、人から出たものはいつの世もそれに従う者の多少にかかわらず遂には崩れ、神から出たものは崩れることなく続いてきた。そしてそれはこの先も変わらず確かであり続けるのである。
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