二千年前にイエスはこのように言われた、「受けるより与える方が幸いである」。人が誰かを愛してその人の喜ぶ姿を想って贈り物を携えていく時、その道中の心は期待に満ちて楽しいものである。そうしてその贈り物を渡して相手が喜ぶ姿を見た時には改めて満足が生じる。もらった相手もうれしいだろうが、渡した側としてもうれしいのである。ところが相手がさほど関心もなくやり過ごされてしまったときにはどこか切ない心持ちになる。これは人間どうしのやり取りのみならず神とのやり取りにおいても同様である。
神は何かを賜るときには惜しみなく賜る。しかしその惜しみなく賜ったものに対して人間がさほど関心を払わず、あるいは偶然のように思い、はなはだしくは自らの力で得たのだと考えて振る舞うときには神も失望し、再び祝福を与えたい心が減退してしまわれるのである。次第に賜るものは小さくなり、ついには人が生存するうえで基本的な恩恵だけを施されるようになる。
主は言われる、「感謝することはもらう喜びの対になるものである」。それはさながら右足と左足を交互に踏み出してバランスを取って歩くようなものだという。神が惜しみなく賜るとき、人もまた惜しみなく感謝を捧げてこそ愛が循環する。神の前で感謝を捧げるというのは何かを差し出すことだけを言うのではない。人が金品を捧げたとて神がそれを必要とするわけではない。「私が生贄を喜ぶだろうか」。捧げられたものは神が導かれる世界が運営されるために用いられるにすぎない。神は何より恵みを受けた人間の心を見られているのであり、真実な喜びこそ神にとっての栄光となるのである。
聖殿を建てる者の心というものは神を迎える場所としてふさわしいかどうかを考えるところから始まるように思われる。そのような者は素敵な聖殿を神に捧げることが自らの喜びであり満足なのである。聖殿ほどの規模でなくとも今の季節における身近な例としてはクリスマスツリーなどがあるだろう。それを単なる飾りとして雰囲気のために自らの考えに従って思いのままに飾り付けるのか、さまざまな装飾に象徴を込めて意味深く飾り付けて神に捧げるものとして作るのかで自らの満足もさることながら神の栄光もまた現れるかどうかが決まってくる。このような心の差はひとえにどれだけ神と対話して生きているかの差であろう。神に祈り、困難も神によって乗り越え、祝福も受け、そうして神を認めて褒め称えて生活する者はますます神の働きかけを受けながらその経緯を深めていく。
神を愛することには失望がない。なぜなら神は愛を捧げる者のその心を全て存じておられるからである。相手が人間ならば自らが込めた真心を分からないこともある。しかし人の心を顧みられる方は真心を込めたなら込めた分だけその労苦も犠牲も全て承知で受け取ってくださり、共に喜びをもって応えてくださるのである。これは同時に私たち人間もまた神の真心を感じ取って差し上げることができてこそ神にとって愛しても失望することのない愛の対象となることができるということでもある。
しかし時には特別に感謝できることがないように思われる時もあるかもしれない。そのようなときは過去を思い返してみれば感謝すべきことは見つかるのだと主は言われる。そうしたことをもって神に感謝を捧げて生きるとき、やはり神は答えられ、一層感謝すべきことが思い浮かぶようにもしてくださり、また一層感謝できるように恵みを賜ることもある。感謝すべきことが思い浮かぶことは一つの祝福ではないか。どれほど多くの物を得たとしてもありがたさが分からず感謝する心がなければ甲斐もなく喜びもないのである。とはいえ自分の考えではやはり感謝すべきことが見当たらないということはよくあることだろう。聖書には何と書いてあるか。「聖霊がとりなしをしてくだる」とあり、「聖霊が思い起こさせる」とある。感謝すべきことには聖霊が悟らせてくださることで捧げることができる類のものも存在するのである。聖霊は真に私たちを細やかに顧みられる天母である。
このように祈ってみるとさまざまに感謝すべきことを悟ることができるが、神が行われたことが私たちにとって祝福であると同時に天地を治められる尊大な神の栄光と権威を現すものであるとすれば(それは黙示録における二十四人の族長たちが「世々限りなく栄光を受けるにふさわしい」と賛美する姿に見て取れるものである)、自らが願っていたさまざまな生活の中の恵みも尊い宝であり、使うたびに感謝を忘れるべきではないけれども、やはり神の御座における御住まいを私たち一人ひとりに与えてくださったことが何より大きな神の権威を現すものではないだろうか。ヤコブがヨセフを最も愛して長袖の晴れ着を着せたように、アハシュエロスが紫の着物と金の冠、そして馬をモルデカイに与えたように、あらゆる贈り物には賜る者の愛、権威、栄光が現れるものであるが、王が共に住まう家を与えることこそが最も大きな愛の現れであり、かつその度量に見合う栄光と権威を現すにふさわしいものであるように私には映る。
人は愛する人と共に住まうことが喜びである。人を愛してもそうであり、神を愛したときには神と共に永遠に暮らすことを願うようになるものである。ダビデも言った、「私はとこしえに神の宮に住まうことを願った」。今の時代に主に出会う者は地上で主を通じて神に会うとおりに天でも神と聖霊と相まみえ、聖霊が地上で共に働かれるこの時に聖霊と経緯を築いた者は天でも聖霊にその経緯を覚えられて生きるという。それだからこの時より大きな祝福はないのではないか。今この時も未練なく地における三位と共に生き、やがて主の肉体が取り去られ、聖霊もまた同時に地上を離れられた後も最後まで愛が冷めないことを私は願う。どうか神が私が力衰えた時も私を支え、精神を定め、地上に生きながらえる間喜びと甲斐の絶えない生にしてくださり、平安のうちに眠り、霊においては永遠に神と共に対話し生きられるよう祝福してくださるように。
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