ロバに乗ってくる方に藁を持ってホサナ! っていう練習を欠かすことない皆さん、こんにちは。
早稲田NHC(何故かハゲてしまうキャンディー)教会、ブログ担当ナマ☆タマゴでございます。
今日も信仰を、聖書を少しでも身近に感じていただく為、こうして駄文をしたためる次第であります。
今まで聖書について極浅く触れてきました。
多少なりとも聖書が遠く離れた地に住む、ヤギを屠ったりロバに乗ったりするヒゲのおじさん達の物ではなく、現代、日本に生きる我々にも関係している物なのだ、という事がご理解いただけたでしょうか。
「少年ジャンプの過去のマニアックな漫画の知識がちょっと増えただけだ」と言われてしまえば、私の不徳のいたす限りなのですがそうなのです。そのつもりでやっています。
所で、「聖書って一体誰が書いたのだろう?」そう考えたことはありませんでしょうか。
私が聖書を学び始めた時も、別に信仰を求め真理に飢え乾いていたわけではありませんでした。どちらかといえば知識欲。
それでも学ぶ中、ある一言に衝撃を受けるのです。それはこんな言葉。
「聖書は神様の人間に対するラブレターなのじゃよ」
語尾が亀仙人のようになってしまったのは、なんとなくその方が言葉に重みがでるからです。
この言葉を聞いた時に何故か、聖書を通して神様が自分に語りかけたがっているような感覚を覚えました。
「取り敢えず、君は聖書で日本一の高校生になりなさい」
スラムダンクの安西先生風に言うならこうでしょうか。当時私は高校生ではなかったのですが、なんとなく安西先生を登場させたくなってしまっただけです。
元々神は実在すると思っていた派の私ですが、神が自分に対して何がしかのアプローチを出している何てことは想像もした事がありませんでした。ただそこに超然と存在している法則の様な物を想像していたので。そう考える人も少なくないと思います。
聖書という大昔の書物。でもそこに書かれている記述を通して神様は私たちの脳に、認識に、考えに働きかけて人生をより良い方向へと導こうとしている。
神様は私たち一人一人それぞれに話したい事があって、でも肉体が無いから話せない。「さあ、そこの少年、早くその書物を通して私の話を聞いてくれ。」そんな風にやきもきしている人間臭い存在が神様だったら、ちょっと素敵だと思いませんか?そういう風に私自身もいつの間にか認識が変わっていたりしました。
という事で、聖書は神様の手によって書かれていると言ってもいいのです。実際そんな聖句もありますのでご安心を。
私自身もなるべく神様が話したい事を書ける様に願い、祈りを込めて文章をしたためていますが、いかんせん普段の生活がアレなので何処からか変な電波を拾ってこないか心配でたまりません。