神は成長の度合いに応じて接せられる。幼子には幼子にふさわしく恵みを賜い、とにかく喜ぶようにいつも人を通じて、環境を通じて豊かに与えられることもある。しかし神の心に寄り添おうと近づく者に対しては夢をもって、人をもって懲らされもし、また人を通じて、祈りの中で悲しみを悟るようにもさせ、困難に直面しても愛ゆえ寛容をもって接し、忍耐をもって過ごすことを教えられもし、ときにはその御言葉に従って行って何か願っていたものを得ることを通じて神が愛して豊かに与えられること、また共に使うことを喜ばれることを教えられもする。(これは時代に従ってしもべから子供に、子供から花嫁へと神の前の人の立場が移り、その時代の規範となる御言葉の内容がより水準の高いものに変化することにも通じる。)
神は霊であるから肉体の目ではその表情も分からず、肉体の耳では声も聞くことができない。一般的な水準では祈りの中で、生活の中で自分が心を寄せて先に神を呼んでこそ霊を通じて脳に伝わってくるもので感じ取るくらいのものである。それゆえより明確に人に神の言葉を伝えるために神は時に従って預言者を送って人々を立ち返らせ、大きな時代ごとに神と一体になった人間であるキリストを送り、その人を通じて人々が神の言葉を聞き、神の行われることを見て神を知り、神を信じ、神の心を知り、その時代ごとに神が願われることの何であるかを分かってその行いを改めるようになさるのである。
しかしその遣わされた人が自らの持つキリスト像のとおりに現れるとは限らない。ただその神を証する言葉、品性、行い、時や場所や力に関するさまざまなしるしをもってその人をその人として認めることができる者は幸いである。
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