かつて、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNew Harmony Churchに通う一個人の目線で分析して語ることで、NHCに対する共感を集め、なんなら読者にNHCのファンになってもらおうという野心的なシリーズがあった。人呼んで、「NHC宗教系問いかけシリーズ」である。
このシリーズは、
うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…
という当時のNHCのSNSの担当者の一言から始まったものであり、一部の人には根強い人気があったとされるが、そのシリーズを執筆していた担当者がある時から詩や童話の創作に興味が移ったため、
「ひとまずこれは締めくくってしまおう」
というその執筆者の独断のもとで突如終結してしまった。この突然の連載終了に関して嘆く声が巷で挙がったかどうか定かではないが、「NHC宗教系問いかけシリーズ 再開 いつ」と検索した人が少しばかりはいたのではないかと思う(これもまた定かではないのだが)。
それから一年余りが経った頃、ふとネットニュースを見るように何気なくNHCのブログのアクセス数を見ていたブログの担当者が、いまだに過去の「宗教系問いかけシリーズ」に一定のアクセスがあることに気づき、こう提案した。
「宗教系問いかけシリーズ」の人気はいまだ衰えていない!読者が過去の連載を回顧している今こそ、このシリーズを再開し、ブログを通じてこの国のNHCの人気に火を点けようではないか!
そんな担当者の思いつきで再開した本シリーズの名前は、現時点では「帰ってきたNHC宗教系はてなシリーズ(仮)」となっている。この仮のシリーズ名はいつか取れるかもしれないし、仮のまま正式な名前の検討は忘れ去られるかもしれない。
さて、そろそろ始めよう。いつもと変わらぬ日常の中で、人はふと考える、
「こうやって毎日が過ぎて、あと何十回か誕生日を迎えると私の人生は終わるのだ」
と。そしてまたある時ネットニュースを見てこうつぶやく。
「もうすぐ世界が滅ぶですって?これだから宗教は…」
中にはタフな人がいて、
「たとえ世界が滅んでも私は滅びることがない」
と続ける人もいるかもしれない。
読者も皆人生で一度はこの予言について聞いたことがあるだろう。
「1999年の7の月に恐怖の大王が空から降ってくる」。
これは「ノストラダムスの大予言」と言われ、人類滅亡の予言として騒がれたものである。また、比較的新しいものでいうと、
「2012年の12月下旬に世界が滅びる」
というものもあった。これはマヤ暦の長期暦というものが一つの区切りを迎えるという解釈が形を変えたものである。
そう、記念すべき初回のテーマは、日本でも一部のアニメで取り上げられ、外国において映画にもなっている、「終末」、「世の終わり」、「天変地異」などさまざまなキーワードで呼ばれる「世界滅亡」である(クラシックで有名なヴェルディのレクイエムを聞いたことがあるだろうか)。
終末について、NHCの人々も慣れ親しんでいる聖書にはこう記されている、
「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(ペテロの第二の手紙第三章第十節)
「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙第四章第十六節から十七節)
こうした終末の予言に対して、隣の国では裁きを免れて天へ引き上げられようと財産を売り払う人々がいたし、筆者自身、「地球が火で滅びる」と主張する熱心な信仰者にコロナウィルスが流行っていた頃の英国で出会ったことがある。
確かに自分の生き方が神から義と認められたらうれしいし、長きに渡り続いている暴虐が終わってほしいと願うこともあるし、地球から飛び上がるSF的な体験もできたら楽しいだろうとは思う。
とはいえ、ちゃんと考えてみると、地球の一部ならまだしも全部を滅ぼすのはメリットはなさそうである。というのは、地球が滅んで「選ばれた人」が地球外に行くのだとしても、人は宇宙で生身では生きてはいけないからである(クマムシは恐るべき細胞修復能力で宇宙空間でも相当長生きできるらしい)。
では生身で地球から引き上げられるのではなく、「選ばれた人々」が乗るためのノアの方舟のような宇宙船があるとして(残念ながら私は招待されていない)、天国が宇宙空間にあるとしても気が遠くなるほど、それは光の速さで飛んでいったとしても「天国って遠いなあ…。もう数億年は飛んでいるんじゃないかな…。それなのに、まだまだ見えないなあ…」と思うほど遠い遠いところにあるはずであるから、「天国」にたどり着く人は誰もいないはずである。
つまり、NHCの人々は恐らく皆「地球滅亡」を信じていないし、肉体が浮かんで天国に行くとは考えていない。これについてはかの「宗教系問いかけシリーズ番外編『New Harmony Churchと死人の蘇り』」で語ったことにも通じる。
では私が聖書を否定しているかというと、そうではない。NHCが属するキリスト教福音宣教会ではちょっと読み方が違うだけである。聖書を見ると、天変地異や火と剣による裁きの話は旧約時代、すなわちイエス・キリストが生まれる前にも書かれている。
- 「地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う」(ヨエル書第二章第十節)
- 「主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る」(ヨエル書第二章第三十一節)
- 「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない」(イザヤ書第六十五章第十七節)
- 「主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」(イザヤ書第六十六章第十六節)
- 「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ書第四章第一節)
この「主の日」というのはイエス・キリストの到来の時代を指している。そして、これらの天変地異はイエスがこう言われたように、既にその時に成されている。
「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカによる福音書第十二章第四十九節)。
しかし2024年現在、私達は皆こうしてブログを書いたり読んだりしている。
では「火」や「剣」は何であったかと言うと、
「見よ、わたしはあなたの口にあるわたしの言葉を火とし、この民をたきぎとする。火は彼らを焼き尽す」(エレミヤ書第五章第十四節)
とあるように、神の言葉、すなわち福音であった。神はイエスを遣わされ、新しい福音を持って旧約時代とは異なる新しい時代を始められた、これこそ終末の預言の正体である。
結局、旧約時代にも存在した終末の預言は、古い時代の終わりであり、新しい時代の始まりを指していたと言える。
「それってもしかして、『今は終わりではない。これは終わりの始まりですらない。しかしあるいは、始まりの終わりかもしれない』(ウィンストン・チャーチル)ってやつ!?」
むむ?なんだって…?難しいな…。
まぁ、それはそれとして、ここまで来ると、読者の中にも好奇心が湧くことと思う。「なぜ福音が火に譬えられているのか」、「日、月、星とは何か」。
しかし、このブログで全てを明かしてしまうことはできない。それは、この聖書が誰によって、どのようにして解かれたを私は知っているからである。とはいえ、上に挙げた疑問の一部についてはNHCが聖書講座で公開しているため、そちらを参照してほしい。ほんの少しだけ明かすとするなら、「火は照らし、見えるようにする」ということである。
そろそろ明日の主日のために眠りに就かなければならないので、第一回の筆はここで置くとしよう。次回のこのシリーズの投稿は、またビビッと聖霊の感動が下った時に書くことになると思う。