うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…
というNew Harmony Church(以下NHC)のSNSの担当者の一言を受けて始まった本シリーズは、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNHCの人の目線で語ってみようというものである。鋭い読者は気付いたであろうが、今回のタイトルには「番外編」なる言葉が付いている。気になる者は気になるであろうから、まずはこの文言を入れるようになった経緯を初めに明らかにしておこうと思う。
これまでに五回の連載を経て、そこそこ読者も増えつつあった本シリーズであるが、この勢いをもって今度は何を書こうかと考えた時に、これまでの宗教一般の話の土台の上に、よりキリスト教寄りの話をしようという考えが浮かんだ。しかしそれを宗教一般の話をする体裁を持った本シリーズにそのまま綴るわけにもいかず、そこで思い付いたのが、「番外編」なるものを作ってしまおうというものだったのである。
さて話の本題に入ろう。キリスト教についてよくよく知られているが、そのくせこの国の人々には相当に信じがたいと思われている教理が「死人の甦り」と「イエスの再臨についてではなかろうか」。前者について、キリスト教圏でなぜ土葬がなされるかといえば、死人が再び蘇る日が来るからだとされている。ここで人は言う、
「死人が生き返るだって!!!!?」
この疑問は至極当然である。なぜなら腐って微生物によって分解された肉体が生き返るためには微生物も生き返らないといけないような、老後に死んだとしたら力のない姿で生き返って永遠にそのまま生きなければならず、それはむしろ苦痛であるから若い内に死んだ方が得なような、逆に若すぎても身体が発達していなくて不利なような、そんな複雑な考えがあれこれ浮かぶからである。
そしてさらに気になるのは、NHCの人々は本気で自分たちが死後に肉体が甦ると思って教会に通っているのか、ということである。そこで大胆に言うが、パウロの語った、イエスの語られた、神の語られた復活は肉体の復活ではなく霊の復活なのである(霊なるものについては既に本シリーズの第五弾で触れているので、そちらを参照してもらいたい)。
パウロは信徒たちに宛てた手紙の中でイエスが死人の中から甦ったと繰り返し話しているが、そのパウロがコリント地方の人々に向けた手紙の中で肉体が甦って天国に行くのではないとあからさまに話している箇所がある、
ある人は言うだろう、「どんなふうにして、死人が甦るのか。どんな身体をして来るのか」。愚かな人である。(中略)死人の復活も、また同様である。朽ちるもので播かれ、朽ちないものに甦り、(中略)肉の体で播かれ、霊の体に甦るのである。肉の体があるのだから、霊の体もあるわけである。
コリント人への第一の手紙15章35-37節、42節-44節
ここで「播く」と言っているのが何かということについては後に触れることにして、続けてイエスが死人の甦りについて語られた部分を二箇所ほど取り上げることにする。まず一つ目はより直接的に触れられているものである。
この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世に入って死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。死人が甦ることは、モーセも柴の篇で主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでこれを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人は皆神に生きるものだからである。
ルカによる福音書20章34-38節
天使というのは霊の存在であって、甦った姿はそれに等しい、つまり霊であるということである。それに続けて死と生について語られているが、「生」と言うときには「神に生きる」ことを指すのだと話されている(「神の子ゆえもう死ぬことはありえない」というのはヨハネの黙示録に出てくる霊の裁きによる霊の死を指したものである)。そこで「神に生きる」というのがどういうことかと言えば、他の箇所で次のようにイエスが語られている、
私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今既に来ている。そして聞く人は生きるであろう。
ヨハネによる福音書5章24-25節
つまり「神に生きる」というのは、神がイエスを通して語られた言葉を聞いて神を信じることを指すのである(そして念押しをしておくと、ここでも肉体を持った弟子たちに向かって話されながら「今まさに死んでいる人たちが聞いているのではないか」と語られているからには、イエスが死んでいるとおっしゃったのは肉体ではないことが明らかである)。
またここでは甦りについて「死から命に移っている」と進行中であることを示していることから、それが生きている、死んでいるという二つの状態の切り替わりではなく変化であることも分かる。
そして「信じる」というのは単に存在を認めるということに留まらない。イエスの弟子のヤコブが「霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」と言ったように、信じるならばそれにふさわしい行いがあるべきだということなのである。これが先に保留しておいた「肉の体で播く」という意味である。
まとめると、
- 死人の甦りというのは、肉体が神を信じてそれに適う行いをすることによって霊が変化することを指す
- その変化した霊が永遠に(神と共に)生きる
ということである。
こうして今回は「死人の甦り」をテーマにして書いてみたが、「聖書というものが寓話ではなく実はまともなものかもしれない」、あるいは「神を認めて行うこととはどのようなことなのだろうか」と読者に思っていただけたなら幸いである。