CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

変わらない姿

ある者は教会にいる時は恵深いようでありながら家では力なく漠然と過ごし、ある者は信仰による兄弟姉妹と暮らしている時は罪もそれほど犯すことなく生活するが、帰省などで信仰者としては孤独な場所に行くとさまざまな誘惑に捕らわれて生きる。

より大きな転換の例を挙げるならば海外に移り住むと言語はもちろんのこと、移動一つ、買い物一つ、ゴミ出し一つ、当たり前のことが当たり前ではなくなり、たとえ家の中だとしても生活の勝手が異なり、しばらくは生活にひどく気を取られることになる。しかし信仰者と言うからにはそうした中でも変わらない信仰を持って生きなければならない。

二千年前、キリスト・イエスは十字架の道を行く途中でも引かれていく主を離れられずについて来る女性たちに励ましを与え、十字架の上でもその後を生きる弟子たちの間を取り持ち、強盗を伝道し、人々を赦して死に至るまで変わることのない「主」の姿を示された。

この時代にもある人は時代の罪をその身に背負って十年の歳月投獄されたにもかかわらずその心と行いは変わらないどころかさらに集中力が増し加わり、十年に四千本のペンを使い切りながら七十万通の手紙を書き、明け方の箴言と水曜礼拝と主日の説教の原稿を滞ることなく送り続けた。そこは単に閉じ込められた所であるばかりでなく夏は扇風機しかない蒸し風呂であり、冬は暖房もない生き抜くだけでもやっとの所であった。その場所で熱中症で死んだ囚人も一人や二人ではない。かつそこに収監されていたのは皆無期懲役や死刑宣告を受けたような重罪人ばかりであり、その気性ははなはだ荒く、看守を含め人を殺すことにためらいがなかったという。

それだけではない。その人はその中で半年にもおよぶ摂食の条件を一度のみならず二度も立てながら人々の罪を悔い改め、神が六千年間待ち望んだ携挙を成そうと清い群衆を備えることに努めた。その厳しさにより一度は目が眩んだ拍子に壁に頭をぶつけて完全に意識を失ったという。

箴言や説教が何もないところから出るのではない。誰しも何かを行う中で悟りを得るのであり、その行いの水準に応じて悟りの水準も異なるものである。獄の中からも外界の数万の人を教え導いたその教えは極限の環境に身を置きながらかつ獄の厳しい時間の期限にも間に合わせて手紙に乗せて説教を送り出し続けた剃刀の刃のような精神をもって悟られた、完全に行われる神の極地の悟りであり、かつその中にありながら日ごと夜中の一時に起床して深く祈られて霊界に入って得た誰も知り得ない聖書およびこの時代の秘密であった。

その人は十日の試みの期間を全て終えられた今も六個の山に囲まれた標高数百メートルにもなる秘境で引き続き神のための聖殿を開発しながら日々世界の七十か国に向けて御言葉を伝えて過ごしている。彼は二十一年前に故郷を離れて外国を転々とされた時代にも母国で起こったあらゆる迫害のために祈りながら手紙を通じて御言葉を送られ、自身は地場のマフィアに金品目当てに命を狙われて追われる身でありながらも笑顔で説教を撮影して伝えられた。いつ、どのような環境においてもその姿は変わることなく神の人としての姿を人々に現わしているのである。

変わらない人は変わらない。なぜだろうか。その精神、思想が神と一体となっているからではないか。キリストの姿は祈りに代表されるように常に神と疎通を図るものである。ひとところにとどまって捧げるいわゆる祈りだけが疎通ではなく生活の中で常に神に、聖霊に尋ね、報告し、対話し、賛美して聖霊の感動と神の構想をもって行う全てが疎通であって、そのようにしてキリストは体質として完全に神と一つとなって過ごすゆえにどこに行ってもその姿が変わることがないのである。

これはキリストに限ったことではない。キリストは完全に変わることのない水準で生きられるが、その弟子たち(それは主を主として認める全ての者である)もまたそのように生きたときにその強度に従って環境に左右されることなく信仰者としての姿を保つことができるのである。「絶えず祈りなさい。賛美しなさい。いつも喜んでいなさい。それがキリストにあって神があなたがたに求められることである」というパウロの言葉を聞いたことはないだろうか。これが彼がたどり着いた信仰者の姿であった。食べて生きなければならないが祈りを欠かしてもならない。神を賛美して誉めたたえることも忘れてはならない。歌は神が人間に賜った芸術の一つである。喜び感謝することが神の行われたことに対する愛する人の反応であり、それにより神が一層喜ばれて働きかけてくださるのである。

かの人はまた言った、「私は霊界で過ごしたゆえに獄のその厳しい環境によって病で倒れることがなかった」と。その人は私生涯においては齢十五にして冬山に入りながら二十一年間修道生活をし、その中で自らの無知と人間の無知と同時に自らの貴重さを悟り、神とイエスに聖書の秘密と新しい時代の福音を学んだ人である。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。