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動物たちの愉快な日常
日常

その人はキリストか、預言者か

キリストは人間であり、その人間の肉体に神が臨むことによってさまざまな奇跡を起こし、また通常の人間が知り得ない封印を解いて誰も知らない御言葉を持ってくる。

しかしキリストに出会うからといって皆がキリストを認めることができるわけではない。キリストの行うしるしを見てもキリストの語る言葉を聞いても悟ることができない者もいる。聖書を読むとイエスが新約のメシアとして来られた時に多くの人が彼をキリストとして認めることができなかったことが詳細に描かれている。

キリストも預言者も神がその人を通じて御言葉を語られるのであるが、両者の間では何が異なるのか。旧約から新約までを見返すとキリストを悟るよりは預言者を悟る方が易しいようである。キリストが新約時代までにはイエス一人であったのに対して預言者はバプテスマのヨハネを含めて多くの者が送られたために、人々は預言者についてはなんとなく経験的に分かったが、キリストについては知らなかったのである。

サムエルの時代、彼が預言者であることを人々は「その言葉が地に落ちないことを見て悟った」とある。ミカヤやエレミヤなどを見ても「その時あなたがたはイスラエルのうちに預言者がいたことを悟るであろう」と預言者の性質を自ら言い表している。ノアの時から始まりその性質は変わることなく、神が彼らを通じて語られるゆえその言葉は必ず成されるのである。

これはキリスト・イエスもやはり同様であって、神が臨む以上は天地が滅びてもその言葉は滅びることがない。それゆえ当時の人々はイエスを見て「預言者ヨハネのようだ」と言い、あるいは「イエスも預言者だ」と話していが、彼がキリストであるとはっきり悟った者は初めてそれを告白したペテロとその他のごく少数の弟子たちだけであった。祭司長や律法学者、パリサイ人やサドカイ人たちもイエスの数々のしるしの上にさらにしるしを求めたが、結局は悟ることができずに十字架の道に追いやった。それは「その目は見ても見ることができず、その耳は聞いても聞くことができない。彼らの心が鈍くなっているからである」という預言のとおりであった。

キリストは罪を赦すことができる権威を持っているから異なるのか、霊界のことを詳細に話すから異なるのか、しるしを預言者以上に起こせるから異なるのか。これらを備える人がいれば理論的にはメシアだけれども認めることができないのはなぜなのか。罪を赦されたことは何によって分かるのか。夢で汚いものが洗い流される啓示を受けることによってであろうか。確かに神はそのように啓示を与えられる。それによってメシアだと認めるならば自分が夢を忘れたらまたメシアを分からなくなるのだろうか。霊界を見ることによってメシアを分かるのならば預言者や啓示者のように霊界を頻繁に見ることのできない多くの者はメシアを悟れないのだろうか。しるしをたくさん見たらメシアだと分かるならば預言者と異なるしるしとは何だろうか。それはどれくらい多くなければならないのか。それだからこれらをもってキリストを悟ることはできないのである。

メシアには預言者とな異なる使命がある。それを知らずにはメシアを悟ることはできない。それは新しい時代の神の御心、すなわち神が人間に対して神にどのように接することを望まれるのかを教えることであり、聖書を解いて新しい教えを持ってこられるのはそのためである。イエスは神の子となる身分を授けるために来られ、旧約の御言葉の根本を教え、そこから発展して子たる身分を受けるに該当する御言葉を人々に伝えられた。詳しく霊界について話し、神について教えられるのも、それによってその言葉が確かであることを確認しつつ愛すべき対象としての神に実感を持って近づくためである。また彼が罪を赦されたのは霊界で罪の鎖を断ち切ることによって罪を赦された本人が肉界において考えを改め、体質になったその行いを変える努力をすれば抜け出すことができるようにと行われたことである(「罪を犯した霊は霊獄に入れられている」とある)。

これらのことが結局は何の形を成すのか。それは「御子を私たちのうちで長子とならせるためであった」とあり、「キリストは教会のかしらである」とあり、「御言葉が肉体となった」とあり、「神が完全であられるようにあなたがたも完全な者となりなさい」とあるとおりである。キリストがその目的を成したことを見てキリストであると悟るのであって自らがキリストの行うしるしを見たからといって、キリストの御言葉を聞いたからといって悟るのではない。キリストの言葉を聞いて神を子供の時代ならば子供として愛するようになり、新婦の時代ならば新婦として愛するようになり、愛したならば子供として、あるいは新婦としてのその行いを自らが行うようになったことを悟ることによってその変化を来たらせたその方をキリストと認めるようになるのである。

これはより易しく譬を使って話すならば、ある「名監督」が自身の獲得したトロフィーを見せるからといってそのトロフィーを見た自分がその監督の腕前を実感することはできないのと同じである。また尽きることのないあまたの戦略を聞いても自分のやりたいようにだけ行動しているならば試合の結果は変わらずその監督の腕前を実感することはできない。その戦略を聞き、その戦略に沿って自身が試合において行動した結果として勝利し、また勝利するならば、そのときに初めてその人が名監督であることを認めることができるのではないか。

御言葉を聞いてもメシアを悟ることのできない者は、御言葉を聞いてもそれにしたがって自らをつくるために努力し行うことをしないゆえにそのようなのである。天国に行く者は「衣を洗い清めた」者だけだとも書いてある。「洗い清める」というのはその服を着る者の能動的な労苦を意味するのであって、誰かが洗って着せてくれることを意味するのではない。神を分かった結果として神を愛して振る舞い生きるようになった自らの変化こそ、自らにとって最も確かな証となり、最も明確なしるしとなるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。