CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

神が人に語ること

旧約聖書を読むとメシアが来たらどのようなことが起こるのか、どのようなわざを行うのかという預言が書かれており、新約聖書を見るとメシアがどのようにそれらを成され、またメシアはどのような言葉、行いをなさるのかを知ることができる。

また旧約聖書には神がどのように人間に働きかけられたのかが記録されており、新約聖書では神が特にキリストを通じて人々に語られ、接せられた姿を見ることができる。

黙示録では旧約においても新約においても共通した、御言葉をもって語られてから最終的な裁きに至るまでに神が人に働きかけられる順序を知ることができる。

このように聖書は人々が文字で読めるように著された啓示であるということができる。啓示とはすなわち明かすことであるが、それはすなわち三位一体の神について、またキリストについて悟らせるための神からの言葉である。祈りの中で声を聞いた、幻を見た、霊界に行ったという類のことだけが啓示なのではなく、我々が聖書を読むならばそれは既に啓示を授かっていることなのである。ここでの要点は人々は啓示を受けていながらもそれを悟れていないということである。聖書を読むもののキリストがどのように来るのか分からない、神がどのように働かれるのかが分からない、それは啓示を受けてはいるが悟れていないということである。分かりやすい例はダニエルが受けたイスラエルの解放の時に関する啓示である。彼はそれが「荒らす憎むべきものが建てられてからひと時とふた時と半時である」という啓示を受けたが「悟れなかった」とあるのではないか(これは時代の終末、すなわち新たな時代の始まりに遣わされたキリストだけが解くことのできるものであり、そしてその既に解かれたとおりに聖書に預言された歴史は成されている)。

啓示は神の言葉であって、人を教えるために神が与えるものである。「啓示がなければ民は放縦に陥る」とあるとおりである。預言者やキリストのように神が直接言葉を与えて人々に語る特別な啓示があり、それらをまとめて書物として残したものが聖書である。以前話したとおり系図なども聖書に残されているのは神が残されたからであって、やはりそれはメシアについて悟らせるために神が啓示として残したものなのである。

使命を受けた者が全体に該当するように直接与える類の啓示があり、一人一人が御言葉を中心としながら各自の人生を神と共に歩むために各自が受ける啓示がある。これは誰もが受けるべき類の啓示であって、受けない者はいない。むしろ啓示を受けていない者がいてはならない。啓示の目的は神とキリストを悟らせるためであり、そのために神はさまざまな予兆や方針を御言葉にもとづいて各自に教え、その啓示を受けた者が正しく解釈して行ったときにしるしを見るようにさせ、そうしてその者に神とその言葉を伝えるキリストを悟らせるのである。これが使命者による言葉のほかに神が各自に語る言葉であり、一方で祈りや賛美、御言葉に従順して行うことが神への我々の言葉である。天地創造の時より神の人間創造の目的は愛を成すことであって、そのために神が人との対話を途絶えさせたことはない(ただしアダムの堕落の後千六百年間は神は悲しみのあまり顔を背けられたとある)。人間どうしでもそうであるように、対話なくして愛は成され得ないからである。

それではどのように神が各自に啓示を与えられるかといえば、それはヨブ記を見れば「夜の夢のうちに幻をもって教えられる」とあるのではないか。アブラハムもそのようにして子孫の苦役の啓示を受けた。ヤコブも野宿した地を「神の陣営」と名付けたのは夢の啓示を受けたからである。ソロモンもまた夜の夢のうちに啓示を受けて知恵の祝福を約束され、ダニエルもまた夢のうちにネブカデネザル王が見たものと同じ夢を見、かつそれを解き明かした。しかしそれ以上に夢の啓示について記録されているのはヤコブの息子ヨセフであろう。彼は父と母と兄弟たちが自身を拝するという啓示を受け、二十一年の後にそれは実際に成された。また獄に入れられていた時にエジプトの王の二人の家臣の夢の啓示を解き明かしたが、果たしてそのとおりに二人の命が左右され、後にはエジプトの王自身の夢をも解いて七年の豊作と七年の飢饉を預言し、エジプトを救い、ひいてはヤコブの一族を救ったと記録されている。ここでこれらの夢について解くための方法があるが、それはいずれも譬によって語られるということである。また数字を基本として解くということである。夢で誰かを見てそれがそのままその人であるということはめったにない。聖書においてさまざまな動物が人間の譬であるように、夢もまた誰かを、何かを譬えて啓示されるのである。数字についてはヨセフの夢を見れば自明であろう。

またローマ人への手紙にはこのようにある、「神の見えない性質、すなわち神の永遠な力と神性とは天地創造このかた被造物において明らかに知られていて、したがって彼らには弁解の余地がない」。繰り返しになるが、啓示とは神とキリストにおいて悟らせるものである。パウロは万物を見れば神を悟ることができると言った。この世に多くの動物や虫がおり、多くの花も木も存在する。雄大な山もあれば広大な海も広がっている。雨が降り、日が昇り、季節が移り替わる。これら全てのものは神が我々人間に語るための言語として創造されたものである。人間の特徴は言語であるが、各言語によって語彙の数にはばらつきがある。しかし太陽を見れば皆同じく太陽を見、アリを見れば同じくアリを見るのである(箴言にもアリの譬が書かれている)。火が御言葉であり、鷲がメシアを象徴することもそれらの性質を考えたときにつながって悟るようになる。メシア・イエスは「地上に火を投じるために来た」と話されたが(キリストは偽り者ではあり得ない)、果たして御言葉の火を投じられ、それは二千年経った今では全世界を焼き尽くす大きな火となったのではないか(「私の言葉を火とし、民を薪とする」と言われたエホバの言葉を成されたイエスは真にメシアである)。「祈れば山が海に入る」ということはない。それは実践者が幼い頃に既に証明し、それは譬であって、真の意味は「山のような大きな者も真理の前では服従してキリストの民となる」ことを語られたものであると証している。このように万物をもってもその創造主は豊かに人に語られるのである。

万物による啓示についてやや冗長に話すならば、「人のふりを見て我がふりを直せ」とはよく言ったものである。なぜなら人間もまた神が創られた万物であって、ある人の行いを見たときに自らもそのようであると悟ることがあるからである。「神はひがんだ者にはひがんだ者となられ、慈しみ深い者には慈しみ深い者となられる」とあるのは、自身に接する人の姿を通じて自身の姿を教えることも含んでいる。たとえその相手は不完全ではなくとも不完全な者にはその相手が不完全に映ることがあるということである。

無論夢や万物だけではなく実際に祈っている中で見る幻もあり、霊界に行く場合もあり、言葉をもらう場合もある。それは必ずしも特別な者だけが受けるものではなく、神と通じる真理の御言葉を持つ者ならばその集中の度合い次第で誰でも受けることが可能なものである。長く語られるものだけが啓示ではない。一瞬見える幻も、一言話される言葉も全て啓示である。何かに迷い、神と聖霊と主に尋ねた時に答えをもらうことも日常生活で随時受ける類の啓示である。ここで「神と通じる真理を持つ者ならば」と条件を付けたのはなぜかというと、啓示というのは譬で与えられるゆえに譬を解く必要があるのだが、解いた答えが真理の脈に沿っているかどうかを分別できなければならないからである。「無知の中で解釈すれば滅びる」。「サタンは光の天使に偽装してやってくる」のである。エバもやはり「死」に関する霊の言葉をサタンによって肉の言葉として惑わされた結果として堕落したのではないか。すなわちサタンは無知に付け込んで人を惑わす啓示を与えるのである。たとえばあなたが「あなたはメシアだ」という啓示を受けたならその啓示を疑った方が賢明だろう。「木は実を見れば分かる」と書いてある。キリストの使命は自らが神から学んだ誰も知らない御言葉によって、また命を思う神の愛と心情を抱くことによって自ずからその使命を悟るものだからである。また受けた啓示が聖書に則ったものであるか、キリストの御言葉にあるものかどうかも正しい啓示かどうかの判断の基準にすべきである。

このように神は人を愛して日々啓示を与えている。放送局が電波を送ってもアンテナが壊れているならばそれを視聴することはできない。人々の認識が誤っていれば神が啓示を与えていてもそれを認識できず、受けたとしても正しく悟ることができない。神も聖霊も特にメシアを悟らせるしるしや啓示を多く与えられるが、それはメシアによって人は救いを受け、かつ新たに神の御前に愛の対象としてつくり変えられるからである。たとえメシアが語る御言葉自体を認めてもその御言葉を語るメシアを認めなければその者のうちに救いはない。それはメシアとして来られた方のうちにおられる神を否認することだからである。時代に神が与えられる啓示も認識できなければ、メシアが既に来ていて新しい時代の福音を叫び伝え、その去っていかれる日が近づいていても分からない。「目を覚ましていなさい。その日は盗人のように来るであろう」というイエスのこの言葉もまた決して落ちることがないのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。