CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

豊かに捧げ、豊かに受ける

二千年前、キリストが初めてこの世に遣わされた時代、キリスト・イエスはイスラエル民族ではなく「待っていなかった人々に見出された」。彼のもとにはペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネのような異邦人もおれば取税人や娼婦など宗教人の間では卑しい者として扱われた人々も集った。イエスをキリストであると正しく悟った者もいたが、しるしを見て、また御言葉を聞いてついては来たが「ダビデの子」、「預言者」などのように思って分からずについてくる者も多かった。

ユダヤ人はそれらの人々と交わっているイエスを蔑み、しるしを見ても見ることができず、御言葉を聞いても聞くことができず、そのメシアたる「ユダヤ人の兄弟」を愛することができずに永遠の不信の罪を負うことになったのであるが、そうした認識をひときわ目立たせる出来事がイエスがパリサイ人シモンと食事をしておられた時のことであろう。イエスにとってパリサイ人と食事をすることは自らの使命を全うできずに失われたバプテスマのヨハネの代わりにご自身を証することのできる足台を築くまたとない機会であった。しかしそのかけがえのない機会に町でよく知られている一人の娼婦が突如押しかけ、イエスの足を涙で濡らし、髪の毛で拭って香油を塗った。シモンはその異様な光景を前に卑しい娼婦として女を眺めたが、イエスはその女を退けることなく「女が多く愛した」と話された。

イエスはキリストの使命をもって神を証し、天国の希望を人々に教えられた(ピリポはそれゆえ神を見たいと願うほどであった)。イエスが語られる神の証には力があり、その語られる神の姿には愛があり、それゆえ人々は神を信じ、さらには神を父として愛するに至ったのであるが、同時にイエスはメシアとして人々から罪の行いを滅ぼされるために罪についても詳しく話され、人々に悔い改めることをも多く教えられた。それによりイエスの言葉を正しく聞いた者は神を愛すると同時に自らの罪について常に自覚が生じるようになり、希望を抱きながらも理想の姿になれない自らに葛藤を抱き、あるいは心を入れ替えて熱心に愛したけれども過去の罪に悩まされて自身が神に愛されているのかと思い悩むこともあったことだろう。それは使徒パウロが自らの書き送った手紙にて切なる思いで告白しているとおりである。

イエスが語られた譬の中にこのような話があった。祭司と取税人が共に宮に上ったが、祭司は「私は熱心に捧げものも断食もしており、卑しい者ではないことを感謝します」と祈り、取税人は「神よ、私は罪びとであって、赦しを求めます」と祈った。この二人のうち覚えられた者は取税人であったという。

先の娼婦はイエスの前で涙を流しながら尽くしたとあるが、イエスは彼女の行いに対して「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」と答えられ、かつ「愛された」と話された。すなわちその女はイエスの御言葉を聞いて神を愛し、神が共にされるイエスを愛しながらも、自らの罪から逃れることができずに涙ながらイエスに罪の赦しを求めたのであった。

イエスの肉体を来て来られた神の姿がここにある。それは、神は愛をただ愛として受け取られるということである。我々が熱心に神を愛するほどに、愛して御言葉を行うことによって清く変化するほどに、自らのかつての罪を後悔することがある。「いっそ初めから罪など犯さなければもっと神の前で後ろめたい気持ちもなく愛することができたであろうに」と。しかしその時神は彼に向かって「あなたを誰よりも愛する」と答えられるのである。あまりにも神を愛して共にいることを願いながらも自らの瑕を気にして思い煩うその真実な愛を抱くとき、神は「たとえあなたの罪が緋のようであっても雪のように白くなるのだ」とその愛を喜んで受け取ってくださるのである。

神は愛が豊な方である。それは生活をしてみれば悟る規模の差はあれど誰しも悟ることである。しかし神はもう一つの愛の側面である受け止める愛もまた限りなく豊かな方なのである。あまりに愛して愛も物質も捧げるけれども「私を愛することを禁ずる」と言われるその叶わぬ愛の苦しみはどんなであろう。神はどれほど私たち人間が愛したとしても「負担だ」とはおっしゃらない。むしろそれらを全てを受け入れられ、かつそれよりさらに優る愛でいつも愛してくださるのである。イエスが分別のない人間であったわけではない。しかしその女を罪の女として扱って辱めて帰すこともなく、「度を越えている」とおっしゃることもなく、その女なりの愛を全て愛として受け取ってやることでその女の苦しみを解き、同時に赦しというかけがえのない賜物をもってその愛に応えられたのである(無論キリストに接するにあたり秩序や礼節が求められることは言うまでもない。高貴な方は高貴に迎えてこそそれを見ている人々の前でもその方が貴ばれるものである)。

限りなく、そして真に純粋に愛を受け取られるその神の器、そして神の肉体として生きるキリストのその器こそ、飽き足りることのない愛によって限りなく発展していく地上天国および天上天国を成すことのできる秘密なのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。