CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
動物たちのつぶやき

歴史に同行する

ルカによる福音書を読むとイエスもまた一人の女性から生まれて生涯を始められたとある。数々のしるしが母マリヤに与えられはしたが、彼女がイエスを特別な環境で育てたとは書いていない。イエスもまた普通のユダヤ人として両親につれられて過越の祭の時にエルサレム聖殿に行き、ユダヤの教師たちの真ん中で議論をしていた姿こそあれど、「家に帰った後は両親に仕えた」とある。すなわちイエスもまた一般の家庭、大工という一般的な職業を持つ父が築いた平凡な家庭の中の一人の子として成長し、次第に背丈が伸びて成人していく姿が描かれている。

このようにイエスは人間であり、特別な生まれでもなかったが、彼は十二歳の時には既に律法についてはユダヤの教師たちをしのぐ水準で悟りを得、それからは年およそ三十歳に至るまで徐々に新しい福音を学んでいかれた。貧しい家庭で生まれ、さまざまな経験をする中で「救いに導く力のない」宗教指導者たちの説教を傍目に人生を思い悩み、神に深く祈りながら律法のうちに込められた「形式を重んじるのではない」神の深い心情と目的を悟っていかれ、その中で自らの考えや行いも直し、次第に救いとは何か、どのようにして得ることができるのかという御言葉を神から学んでメシアとして使命を「授かるに至った」のである(癒しの御力もまたそのような過程でいつからから身に付けられたものである)。

イエスが三十歳の頃から福音を伝え始められ、その日から新約の歴史が始まり、イスラエルには旧時代からの解放の歴史が興った。アダムが堕落し、人がしもべとして神の前に生きるようになって四千年の後にようやく神の新たな時代の御言葉が臨み、希望のないしもべの生ではなく神の遺産を相続する子としての身分を授かる祝福が与えられたのである。

そのようなキリスト・イエスが歴史を広げるにあたり、自らは完全でありながらもなおなくてはならぬものがあったが、それがまさにイエスのキリストであることを証する存在であった。一般的な家庭で生まれ、父と母に仕えながら家庭の一人の子として育ったイエスを、自らを教え、自らの罪を神の代理として赦し、自らを永遠な命へと導くキリストであるとは誰も認めることができなかったのである。

神はいつも二つのものを対にして創られた。男と女、日と月、右目と左目、これらのものが一つになることによって「一人が千人を追い、二人が万人を追う」ものとして一層の力を発揮するように創造しておかれたのである。「二人でいるならば一人が倒れてももう一人がこれを助け起こす。一人でいて倒れ、それを助け起こす者のない者はわざわいである。誰かが戦いを仕掛けるならば二人でこれに当たるであろう」。これは神の絶対的な御言葉としてメシアが歴史を広げるにもまた適用されるべき御言葉であった。イエスは弟子たちのことも二人ずつ遣わしたとあり、アダムもまた「人が一人でいるのはよろしくない。ふさわしい助け手を送ろう」との御旨によってエバが遣わされたのではなかったか。

バプテスマのヨハネこそまさに肉によれば祭司の子、預言によって生まれた子、霊によればエリヤの御力を与えられて人々を悔い改めに導き、人の心を神に向けさせる者であって、誰しも彼の名を知らぬ者はないほどの人物であった。さらにはヨハネにはイエスの親族であるという点からイエスの生を証する位置も与えられていたのである。モーセの時代、彼を支えたのは肉の兄弟であるアロンおよび信仰によって育ったホルであったのと同様に、イエスを支えるべき者もまた親族たるヨハネと信仰によりイエスに従ったペテロであった。このことはまた「二人の証人」としてゼカリヤ書ならびに黙示録に記されているとおりである。

しかしながらヨハネはイエスと行動を共にせず、自らの花嫁であることを悟れずに「花婿の友人」として他人のように振る舞いながらイエスのキリストであることを証することを放棄してしまった。一人さまよいながら生きるうちに次第に自らの「エリヤである」ことも忘れ、そのことはイエスの「異端である」との認識をユダヤの宗教指導者らのうちに決定づけることとなった。「来たるべき方はあなたなのですか」、この言伝は証人としての自らの位置を完全に喪失したヨハネの最期を切なく物語るものであった。「天国で最も小さい者も彼よりは大きい」と言ったのは、ヨハネが天国を相続する者ではもはやないということを話されたのではないか。証する者を失ったイエスはユダヤの宗教人はおろか身内の者さえイエスの気が狂ったと取り押さえに来る有様であった。

イエスが「祈られた」後に「人々は私を誰だと言っているか」と尋ねられ、「私は十字架にかかる定めにある」とおっしゃったのはこれらの出来事の後であって、証する者のいない状況でイエスが最後に見出した道が十字架の犠牲だったのである。それにより人々の罪の贖いと共にサタンが退き、同時に弟子たちも聖霊を受けて主を叫び伝えたことによって、イエスが歩まれた十字架の苦痛をイエスに従う皆が背負いながら新約の歴史は広まったのである。

メシアは完全に条件を立てられた。それにもかかわらず時代の無知と証人の失敗によって起こった艱難と迫害をメシアがもがくからといってどうして止めることができようか。メシアといえど一人で歴史を広げることはできない。証する者がいなくては歴史は立ち行かないのである。

メシアに出会ったならば彼のもとを離れることなく学んで証もしてこそ神が自らに生来賜った真の個性を見出し、自らの力では成しえない御働きと共に歴史の中で最高に輝きを放ちながら自らを価値あるものと認め、三位に栄光を帰しながら喜んで生きていくようになる。そしてその歴史は幻想ではなく、三位は確かに自らが永遠な嗣業を受け継いだことをその行った者に明かされるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。