CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
動物たちのつぶやき

金塊

ある一つの金塊があるが、その輝きだけを見てそれが金であると言うことはできない。金であれば金の性質を満たしているはずであり、その柔軟性もなければならず、また腐食しにくいという特徴も持ち合わせていなければならない。無論アルキメデスの逸話に見られる重さというものも見分ける要素の一つであろう。

貴重な金属もこのようにそれがその金属であるならばさまざまな観点からその特性を有しているものである。キリストと呼ばれる存在もまた同様である。何か世界的なことを予言してそれが一つ的中したからといってその人物がメシアと言えるわけではない。占いがよく当たるからといってメシアだと言えるのでもない。メシアというからにはやはり満たすべき性質があるのである。

ヨハネの黙示録を読むとキリストは「自分しか知らない名」を持っているとあり、そして「その名は神の言」だとある。すなわちキリストであるならば誰も知らない新しい時代の御言葉を持ってこなければならないのであって、既にある御言葉で新しい歴史を広げることはしないのである。イエスを見ると彼は聖書も人々に解き明かされながら既存のモーセの律法を基本としてそれらをより高い次元で完成するものとして肉体が犯した仕業のより根本である内面で犯す仕業についての戒めを与えられた。そしてイエスは旧約では語られなかった天国についての話をされ、一方では黄泉や地獄における霊の姿を話されもした。このようにメシアであるならば霊界について詳しく話すことができなければならない。さらにイエスは御霊の存在を人称をもって語られて明らかにされた。このようなより高い水準での人間としての完成も、天国について、神について、聖霊について明かされたことも全てより高い次元で神との愛を全うするために話されたことであって、神の歴史における御心を知らずして語ることのできるものではない。

神がただ人をめでるために創造されたわけではない。ただめでるためならば人にとっての犬や猫のようなもので十分であって、神が尊くも尊いご自身の姿かたちに人間を創造し、「神のおるところにあなたがたもおらせる」と御心を定められることはなかったのではないか。メシアは「東から神の計画を全うするために招かれた猛禽」であって、これは神の定められた計画が何であるかを教え、それを成し遂げる者であるということではないか。さらにイエスは「あからさまに話して聞かせる時が来る」と話されたのであって、メシアは新しい時代には再びその時代における神の御心を明らかにすると述べられている。神が人間を天地創造の最後の傑作としてご自身の姿に似せて人を創られたのはなぜか、その創造の目的を明かすことなしにメシアではあり得ないのである。

また使徒ヨハネは御子イエスについてこのように証している。「神がその方を信じることによって救いを受けるために遣わされた」者であると。イエスはメシアとして「人の子は罪を赦す権威が与えられている」と話され、自らを神が遣わした方であると信じる者に対しては罪の赦しを与えられ、エルサレムにおいて自らを最後まで不信し続けたユダヤの宗教指導者たちに向かっては「あなたがたは罪のうちに死ぬであろう」と話された。そしてその赦しと救いの道はご自身が十字架の上でご自身を義人と認め、天国を持ってくる権威を持つ者であると認めた強盗をパラダイスに救っていかれるまで全うされた。

なぜイエスは罪を赦すことができただろうか。ここで私は使命者としての権威の話をしたいのではなく論理的に事実を述べようと思うのであるが、それはすなわち自らの預かり知らないものを赦すことはできないということである。易しく言えば罪の何たるかを知らずに罪を赦すことはできず、また罪の何たるかを知らなければ罪を裁くことはできないということである。罪を知らずにどうして「サタンの業を滅ぼす」ことができようか。メシアとして来られるならば神の御心を知らず、その御心にそぐわぬものとしての罪を知らないということはあり得ない。

サマリアの女とイエスが語られた時、イエスは何の話をされたかといえば彼女の異性の問題について話されたのである。ペテロに対してもどのようにしるしを見せられたか、漁師として追い込まれた彼に魚が獲れるようになるしるしを与えられたのである。イエスによって病が癒されたという記録も数えきれない。メシアは宗教のことだけを解決するのではない。宗教を中心としたあらゆる世界の問題を根本から解き明かし、神と共に解決するために来られるのである。

先の強盗の話やサマリアの女の話はまたメシアがユダヤ人のメシアではなく異邦人にとってもメシアであることを証している。「異邦人もユダヤ人も等しく救いを受け」、彼の御言葉を聞いた者は神の前での自らの存在の価値を悟り、獅子であれ毒蛇であれ牛であれ熊であれその個性のとおりに、神の御言葉によって明かされる愛のうちに理想世界を成して生きるようになる。イエスはこれを「天国はすでにあなたがたのところに来たのだ」と言われたのではなかったか。すなわち地上天国の生が各自の「心のただ中」から成就されなければならないのである。

そしてこれらが人の力によらず神の働きによって成されることを証明するものとして人手には決して操作し得ないものをメシアはまたその身に帯びられる。「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながらどうして時のしるしを見分けることができないのか」。メシアは生まれる時から全てを時に合わせて成就する。ひと時、ふた時、半時を神は歴史に正確に刻まれながら異邦人に与えられた時まで含めて全ての時を合わせながら全人類のメシアとして世に証するのである。

このようにメシアはあらゆる角度で見てもメシアでなければならず、一つ二つのしるしをもって「見よ、ここに、見よ、あそこに」と言われるほどあちらこちらに出現が取り沙汰されるような存在ではない。しかしメシアは伝説のようでありながらも確かに肉体をとってこの地上に人の子として現れられる。なにより我々が自らの思いのうちに再び来られるメシアを見出すことを望む以上に、まさに神と聖霊ご自身が我々人間がメシアを見出して神との愛を全うすることを望まれているのであって、絶えず望みを捨てず祈る者には必ずや聖霊は強権的な御働きによってその方を明かされるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。