CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
動物たちのつぶやき

報酬

神が人に報いるというのは直接神が働きかけられて報いる場合もあれば法則によって自らに返ってくる場合もある。

ダビデがヘテ人ウリヤの妻バテシバと姦淫しその夫ウリヤを最も激しい戦線に送り込んで計画的に殺した時、神は怒られて預言者ナタンを通じてダビデに対して度重なる戦と息子アブサロムから起こる禍を宣告された。そして「バテシバとの間に生まれる子は死ぬであろう」とまた語られた通りに行われた。すなわち子供は死に、ダビデはアブサロムに追われ、王宮に残してきた妾たちはアブサロムと姦淫を行うこととなり、アブサロムの反乱が収まった後もダビデはペリシテ人との戦いに明け暮れたと記録されている。

一方のアブサロムはその野望に満ちた考えで父王を滅ぼして自らが王になろうと思い上がり、陰謀を企ててイスラエルの人々を自らに従えてエルサレムを逃れた父ダビデを殺そうと追撃したが、それを終始ご覧になっていた神の計画に従ってダビデの友ホシャイの戦術を聞き入れて自らが戦線に出たことによって、結局はエフライムの森で自身の長い髪の毛が木に引っかかって身動きが取れなくなったところをヨアブに撃たれて死ぬこととなった。

また一方でダビデが賜った祝福といえば、その内乱より以前の話になるが、自らが香白の宮殿でふと安らぎを得た際に幕屋のうちに住まう神に思いを巡らせ、神のためにもまた壮麗な宮殿を建築しようと自ら思い立ってそれを告白したことにより神が甚だ心を動かされ、自身の子孫からキリストを送るとの約束を授かることとなった。さらに自らは偉大な名を轟かせ、自らの国もまた安泰であるとの約束を授かることとなった。

ヒゼキヤもまた神の前に正しく歩んだことによってアッシリアが人手によらず十八万五千もの兵を失って退くこととなり、さらに自身の病も癒されることとなった。

アダムとエバは神からの言いつけに背いて神よりもサタンの言葉を聞き入れ、約束の日の到来を前に自分たちどうしで愛し合った結果としてエデンの園を追い出され、歴史を広げるその御心を剥奪された。肉においては以前耕していた地に戻り、労苦の中でその生涯を過ごすようになった。

ヨブはサタンの試みによって息子娘を奪われ、財産を失い、自らも皮膚病によって甚だしい苦痛の中にありながらも自らの行いの正しかったことを神の前に証し、最後まで貫き通したことによって息子娘を再び授かり、二倍の財産を得るようになった。

このように神が御自ら手を下されて人に報いることも尽きることがないが、一方で神は天地万物を法則に基づいて創造なさり、その法則に従って事の結果が左右されるようにもしておかれた。流れる水に逆らって泳げば流れに乗って泳ぐよりも労苦し、燃える物を暖炉のそばに置いておけばそこから燃え広がって火事が起こる。酒を飲みすぎれば肝臓や脳が害を受け、食べ過ぎれば腹がもたれる。ゴミを放置すれば疫病が起こり、掃除をすればきれいな場所に住まうようになる。人込みの多い所に頻繁に出かけていれば伝染病にかかるリスクも上がる。金を稼ぐために研究すればそれによって金を稼ぐようになる。眠れば疲れは取れるが眠った時間に肉で何かを積み上げることはない。退職を間近に仕事をせずにいれば短期的には合理的なようでもその性格は新たな地でもある種の行動の選択となって現れて不信を買い、果たして確認されれば昔のその不正が明るみに出る。これらもまた当人が行った結果得た報いなのである。

霊界についても誤解がなされていることがある。天国も地獄も存在する。しかし地獄という場所は神が送り込むことによって行くのではない。

霊界においては心がそのまま行いとなって即座に反映されるのであって、人を憎めば霊はその相手を攻撃し、情欲を抱いて見れば霊はその相手と姦淫を行い、心が離れていれば霊もまた遠く離れているのである。

これらをより低い強度で体験するには夢において自らの魂の行いを見ることだ。魂は肉と霊の中間に位置し、霊よりは鋭敏さが劣るが肉よりは鋭敏であり、かつ霊界ゆえ物理的に縛られることもない。遠くの物を見ようと思えばそれは拡大されて見え、飛ぼうと思えば空を飛び、淫乱な考えを抱けばその通りに相手に行い、ある場所に移動しようと思えば瞬間にしてそこに移動する。

そのように神を常に愛しその御言葉を行って自らを神と共に過ごすにふさわしくつくるならば霊は神の近くに住まわって光の満ちるその世界で生きるようになり、神に関心がなくまた神に似た者となれなければ神と遠く離れた世界で過ごすようになる。そして神やメシアを憎み、またその行いを捨てなければその霊は神と対極をなすその場所にいるのである。人が地上で好む通りに散らばって存在し、自らと気の合う者と群れをなして生きるように、霊もまた物理的な制約がないゆえに一層極端に自らの体質に合う場所に行って住まい、また自らに似た者と共に霊界をつくって過ごすようになる。その結果が数万層にも及ぶ霊界なのである。すなわち霊界もまた行ったとおりに受ける結果なのである。

人間は完全ではない。しかしその行ったことによる結果は行ったとおりに受けるようになる。神を信じるからといって寝なくても体を崩さないわけではなく、神を信じるからといって健康管理をしなくても病気にならないわけではない。神を信じる有益は知ることにある。神の御力を信じ、思い煩いを神に委ねることで不安を免れ、そこから無用な誤解が生じて疎外感や憎しみが連なって生じることを免れる。神に学び、神と聖霊に尋ねて御言葉に従って判断を正しく下せば無用な苦痛を免れるようになる。善が分かってそれを行えば神の前に一層喜ばれ、自らの体質を義なるものに変えるならば肉においても有益を得、霊界においても神に似た者となって神の近くに住まうようになる。悪を分かればそれを行わないことによって罪を免れ、また行ったとしてもメシアを知って真実に行いで悔い改めるならば罪の赦しを受けるようになって地獄の使者の追撃を免れるようになる。

使途パウロは「私は走り切った。もはや天において栄冠が与えられるのを待つばかりである」と言った。さらには「卑しい器が汚れを取り除くならば尊いところで用いられる」とも言った。キリスト・イエスもまた「御旨を行う者だけが天国に入る」と言った。肉であれ霊であれより優った世界に行くにしてもより優る実践をしなければ与えられることはないのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。