CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

キリストの生誕

気が付けばクリスマスの日になっていた。去年は外国にいたが、そこでは街も飾り付けをしていたし、同居人もクリスマスツリーを飾って私もそれに手を加えたのでクリスマスという認識があったが、今年は外にもあまり出掛けることもなく、そのうえ自宅で他のことでかなり忙しく働いていたため他と変わらぬ一日のように迎えることとなった。

しかし明け方に祈る中で、この時代もまた新たにキリストが来られたことで新しい時代が広げられているのだということ、そしてそれが真に神が願われたことであったということを自らの姿を通して悟るようになった。

二千年前、キリスト・イエスが新しい新約の御言葉を伝えられた時には、神の前に人々がしもべとして平服して仕えていたそれまでの生き方とは完全に異なる子としての生き方をするようになった。それは観念的に異なるという話ではなく、他でもなく子としての身分を与える御言葉を聞き、イエスにならって祈り、イエスにならって考え、イエスにならって行った人々自身が、いつしかふと自らの生を振り返った時に神に対してその子としてより親しく祈っていること、子としてより父としての神を喜ばせようとしていることに気が付くようになったはずだということである。神から見ても、しもべとして生きる人々をご覧になるよりは子としてご自身により近く生きる人々がより愛らしく、また子が父を敬うようにご自身を立てようと生きる姿がより微笑ましくあったことだろう。

この時代もまた同様であって、祈る中で自らがいかに近く神に語り、いかに御心を成して差し上げようと愛をもって接しているかに気が付くようになった。祈りを誰かに教わったわけではない。祈りというのは対話であって、ただこの時代の御言葉を聞き、主の神との対話を聞きながらいつしか自らもまた神に親しく語り、神のさまざまな恵みを受けながら愛を感じ、御心を知るがゆえにその愛に応えて差し上げることを願う新婦の姿を呈するようになったのであった。

生活の中で起こる諸々の楽しみ、喜び、苦しみ、それらを分かち合って生きるとき、そこには一層の愛が起こり、かつ相手の願いを成し、相手もまた自らの願いを成してくれようと心を尽くしてくれる姿を見るならば、そこに最も大きな喜びが起こるのではないか。神がキリストを送られたのはまさにそのようなご自身の所望を叶えるためであった。

無論神を喜ばせることで終わるのではなく、人の世もまた人が神と共に使ってこそ理想的に使うようになる。人が神から与えられたこの地を自分自身で自らのためだけに使おうとしても目的を分かって感謝と喜びをもって使うことができず、また皆自らの思いのままに用いようとして無駄な破壊や争いが起こる。「地を従わせよ」と話された神の御言葉は「生めよ、増えよ」の後に来る神の祝福であって、神と共に歩み、神の精神、思想、愛をもって人が成長して初めて成されるものである。これは万物に関することのみならず、人が人を想うことについても同様である。神が人が互いに憎み、争うように教えたことはない。全て神の愛をもって成長するならば地上には平和が成されるようになっているのである。そして、平和の土台があってこそ神に栄光を帰することができる。

イエスが誕生されて福音を伝えられたことは人の世により高い水準の愛をもたらし、霊においても肉においてもより神と近く暮らす祝福の道を開かれた。その愛があって今の私たちの世界の精神的な水準があり、またその土台の上に今再びキリストが来られてさらに優った愛と神との婚宴の喜び、そして永遠な祝福がもたらされている。今はまだ全世界で彼を悟って従う者はさほど多くはないが、その中では愛と平和、そして神と御霊と御子への栄光が満ちている。この福音は真であって、時が経てば経つほど壮大に広がっていくことだろう。そしてこの時代のキリストがお生まれになったその日もまたクリスマスとして覚えられる日が来るであろう。その日がいかなるものであるかは聖書でこのように語られている、「いと高きところでは神に栄光があるように、地では御心がある者に平和があるように」。アァメン。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。