CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

好み

人は自らが好む洋服を買ってみたところで、大概は数か月も使えば飽きてしまう。数年すればほぼ確実にあまり頻繁には着なくなっていることだろう。買う時にはそれが自分の目に敵い、心を躍らせて買ったのだが、後で見てみるとなんだか地味に見え、あるいは自分が着るには派手なように見え、年齢不相応に見え、品がなく見え、暗く見えたりして着なくなる。

また自分があまりにも好んで結婚した相手が本当に良い選択であるとも限らない。やはり一時の興奮に従って肉の好みに基づいて選んだ結果、数年も経たないうちに心が合わなくなって破綻することも多い。あるいは破綻せずとも冷めてしまっていることが多い。

宗教というものもまた同様であって、しばし自らが求めていたもののようで、次第に慣れてくると感動が冷めて、あるいは信仰から来る困難に直面すると疑問が生じて途中で信仰を放棄してしまう人も数えきれない。

しかし一方では歳月が経っても色あせず、むしろ一層好ましく思えて着る洋服がある。同様に、初めは自身の肉の好みからは外れていると思ったが、後になればなるほど好み、一層愛が深まる相手もいる。また困難があっても最後まで信仰を保って天の国に入る人もいる。これらの結末とは異なって上記のように無念な結末を迎える根本的な問題は何か、それは「肉の考えは気分や雰囲気によって変わるためあてにならない」ということである。

神と聖霊はその場の雰囲気に合わせて行われることなく、御心をもって行われる。洋服を買うこと一つも将来まで見通し、また何より霊の水準で見たときに最もふさわしいものを下さるのである。それゆえ自らが時と共により神の品性を好むようになるにしたがってますますその得たものが好ましく思えてくるのであって、聖霊に訊ねることもなく自分の衝動的な好みで選んだものはすぐに水準が合わなくなるということである。

自らが生涯の縁を結ぶ相手もまた御心を追い求めて聖霊によって選んだときに最も満足する相手と巡り合う。当初は自らの肉の好みに照らせば外れているようにも見えるかもしれない。しかし基本として自らが神を愛し、神に愛され、神とさまざまな苦楽を共にしてかけがえのない神の愛の対象として生きてきたように、目の前の相手もまたそのように神の前でかけがえのない相手であり、その後も一生を生きる間常に神と聖霊と共に歩む者であることを悟って接し、また自らも続けて神の御心を成そうと自分自身を磨いて成長することで続けて考えや行いの水準が合い、そのうえでその二人の間にしかない互いの個性が調和を成すことで理想世界が成されるようになっている。たとえ一時的な不和に陥るとしても神が引き合わされたという確信があるならばその不和もまた神と共に分かち合うべき経緯であって、平和の神と聖霊がそれぞれに話して再び和睦を成すようになるのではないか。

ところで信仰についてはどうだろうか。永遠の命とは神と神が遣わされたキリストを知ることであって、その御言葉を行うことによって自らの肉も霊も変化して神の愛の対象としてふさわしく成長することであるが、これもまた途中で他の道に行くことはできないものである。神が定められた肉における愛の対象が一人であるように、霊における愛の対象もまた神と御霊と御子およびキリストのみである。肉の雰囲気でたまたま命の道に出会ったとて最後まで行けるわけではない。信仰というものは一日にして変化をもたらすものではない。また毎日信じがたいしるしが起こるわけでもない。結婚と同様に日々の生活の積み重ねであって、その積み重なる愛と義の行いが自らの体質を刹那的な肉的なものからより優った霊的なものに変化させ、嗜好を変化させ、霊の変化をもたらすのであり、また自らの神に対する祈りと感謝、賛美などの愛の行いと人間として努力すべき責任分担を果たすことにしたがってさまざまに神がしるしを見せてくださるのである。まして困難が押し寄せるときには自らが従う歴史が神が導かれるものであるという確信なくしてどうして耐え忍ぶことができようか。

人間の考えは揺れる葦のようであり、ただ神の御心だけが天地が滅ぶとも変わることのない絶対的なものである。それゆえ主はこう話される、「あらゆることにおいて霊によって判断しなさい」。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。