CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
動物たちのつぶやき

自分を着て行われる神

神は肉体を持たないが、人に働きかけられる際には考えによって働きかけることもなさり、人の肉体を着て行われることもなさる。考えによって働きかけるというのは、まるで自分の考えであるかのように神と聖霊の考えが頭に浮かぶようになさるということである。さまざまな状況や環境の中で何かをやりたくなり、それをやり始めてみたところ、やればやるほど壮大になり、遂にはそれが神が図られたことであると悟るようになる。

神が人間に考えを与えて導かれることは自分自身を通じてのみならず他の者を通じても行われ、それによって自分のために道を開いてくださることもある。普段自分が快く思っていなかった人間がどういった理由からか採用に積極的でないある部署の人間に熱心に説いて自分がそこに移るようにしてくれるようなこともある。

これらのことは不思議なことであるが、考えを神に向けている人ならばそれなりに経験したこともあるのではないだろうか。しかしもっと不思議なのは神が自分自身の肉体を使って直接行われることである。無論神が自分のもがきの上にさらなる能力を下さって何かができるようにしてくださったということも神が行われたことではあるが、ここで言う「自分の肉体を着て行われる」というのは自分の意思とは関係なく自分の体が動いて行ったことを指す。

ある時同じ職場の人間とタクシーに乗って会議に出かけたことがあったが、普段からその人は仕事もろくにやらず、言うことも聞かず、さまざまに気に障るところの多い人であった。その日もその人だけでは心許ないというので同行するはめになったのであるが、会議から帰って少ししてその人から一通のメールが届いた。「Invoice」がどうという件名であって、先ほどのタクシーの領収書がどうこうという話かもしれないと思ったが、普通なら読むべきところを気に入らなかったからなのか、ふと手が動いて読みもせずにゴミ箱に入れてしまった。ところがしばらくしてその人が自分のアカウントが乗っ取られたと言って騒ぎ出したのである。「友人」からのメールを信用して添付ファイルを開いたが、その後自身の繋がりのある人々に不審なメールが送りつけられていたのだそうだ。それがまさに先の「invoice」関連のものであった。他の人ならともかく、私はその人と共にタクシーに乗っていたのだからそのメールは不審なものとは映らずに開いてもおかしくはなかったが、聖霊が瞬間手を動かしてゴミ箱に入れるようにしてくださって私自身の感染を防いでくださったのである。

また本を書いていてこのようなこともあった。五百数十ページにおよぶ本の校正をしていたが、一度既に目を通して誤字・脱字や文章構成、さらには記載した内容でプログラムがちゃんと動作することまで手を動かして修正・確認を行って体裁を整えた後、入稿に際して下の余白がやや大きいことが判明したため再度表示幅を増やして体裁を再調整することにした。その二度目の通し読みでは表示の再調整ということもあってプログラムやコンソール画面の途切れがおかしくないかを確認することだけに意識が行った。そうしてところどころ調整しながらその都度ファイルを変換して出力していくのだが、その変換には時間がかかるため待っている間に他の勉強をしたり、あるいは変換する前のファイルを眺めたりする。ある章はメモ帳のようなアプリで四千数百行から成っているものであり、本の上では百五十ページにはなるものであったが、ファイル上のスクロールバーのいかに小さいことかを想像してもらいたい。聖霊が行われたしるしはこうであった。すなわちなんとなくその四千数百行のファイルをスクロールして止まったその数行の内にあるタイトル、そこに一か所小文字の「l」が挟まっていることを見出したのである。

これだけではない。その後も変換されたファイルをスクロールして流し読みしながらふとあるプログラムのコードで手が止まると(前述のように、既に動作確認は全て終わっており、本来はページの区切りの不自然さだけが点検項目である)、見よ、数十行あるコード片の中の繰り返しの二行において英語の単語と単語の間に若干他より広く見える全角のスペースがあるではないか!それは文章的には誤りはなく、かつちょうどプログラムの動作に影響を与えない場所にあるものであるから、あらかじめスペースの誤りだと言われて眺めるのでなければ見出すことは限りなく難しいものであった。

さらにまた数十ページを眺めながら一度通り過ぎてなぜか気になって二度ほどスクロールを戻して十行くらいの文章の塊の最後の一行を見る。すると、「GATEWAY_CHANNNEL」。周囲を見ても一切の他の誤りは見つからない。

このように聖霊は驚くほど正確に私の体を着て私の手を止めて誤りを見るようにさせるのであった。これらを通じて二つ悟ることがあったが、一つは自分さえ分からぬうちに正確に体が動かされるのを見ると、御心でないものもまたこのように「あり得ない」誤算が生じて崩れ去るのだと知り、神の全知全能さ、恐ろしさを悟るようになった。

しかしそれ以上に驚いたのは、聖霊が私以上に私が行っていることに関心を持って自ら取り組まれているということであった。神と聖霊は人を通して御心を成されるゆえ、人に行わせながらただ考えを与えて導かれるばかりでなく、時には積極的に人の体を着て関与されて事を進められるのである。主は言われる、「神の願いを成す者に対して神はその者のあらゆる肉の願いも満足するように成してくださる」。人が神を思って行う中で神がその人を着て行われるくらい一体となって御心を推し進めるならばどれほどその願いの大きいことだろうか。また、「『神は全知全能であるから人間が何を手伝うことがあるのか』と思う者は神と遠く離れているのだ。大きい人ほどたくさんの手助けが必要なのだ」と誰よりも神に仕え、その手足となって行われる主は言われる。神は今日も愛する人の肉体を着て行われようと、神を愛し、共に歩んでくれる者を探しておられるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。