CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

性格

先日ある人の依頼で性格診断なるものを受ける機会があったが、これは神とキリストを信奉する者にとって非常に独特の感覚をもって取り組まねばならないものの一つである。私が神に祈ることもない異邦の人間であったなら恐らく「はい」と答えるところであっても神に祈るからには一人でいるようでいて実際は常に神と聖霊とキリストと共に歩むゆえ「いいえ」となるような項目が少なくないからである。より聖書的に易しく言い換えるならば、問に答える間は常に「外なる人」と「内なる人」を意識することになるのである。しかしだからといって私が偽りを答えているわけではない。生まれ持った個性上変わらない(変える必要のない)部分もあれば地上における聖三位と一つとなって愛を実践する中で死に至る肉の思いを捨てて命に至る霊の思いをもって生きるゆえ意識して振る舞いを変えている部分もあるというだけである。そして実際に行っている以上はそちらが真の自身の姿であって、地においても天においてもそのように記録されているのである。

無論結果を見るとそのような類の問の存在によって自らの性格とかけ離れたものが現れるわけではない。人として選択を迫られる問よりはより本質的な好みや思考を問うものが多いゆえである。しかしながら、そうしてある種の好みや思考を有する人間はかれこれの様子や態度を見せることが多いといった分析が加えられて出てくるのであるが、こうした嗜好から導き出される追加の分析結果には誤りが見受けられる。というのは、この部分こそまさに人との関わりに関連する部分であって、神とキリストが教える愛の実践が試される部分であるからである。「誰にも相談せず一人で決断を下す」、「関心を人と分かち合うことが不要だと思っている」、「不愛想」等々、生まれながらの人であれば該当したであろう分析結果も神が手を付けられた今となっては見当たらない形象である。

主は言われる、「性格は脳の体質である」。体質である以上はつくることが可能なわけである。生まれ持ったものとして自らの不義を拭い去ることのできないものだと悲嘆する必要はなく、神を愛し、神の願われる品性を目指して悔い改めを繰り返しながらもつくっていけばよいのである。

旧約聖書でエゼキエルが預言した死者の復活は朽ちた肉体が人間の原型を取り戻して地上で生を再び得ることを指すわけではない。イエスが話された死人の甦りもこれと同じものを指している。「私の言葉を聞いて行うものは死から命へと移っている」。それはキリストを通じて語られる言葉に聞き従いながら罪の行いを捨てて神の願われる姿に近づくことを言われたのであり、旧約は旧約の次元で、新約は新約の次元で、成約は成約の次元で神の御心を成すことが各時代における復活であり、携挙なのである。

我々人間が各自生まれ持ったカインに属する性格、また成長する中で身に着けたそうした邪な性格をキリストの品性、すなわち神のような完全な品性に練達と忍耐を経てつくることがまさに復活であって、キリストとは十字架の上でも自らを引き渡した者たちの罪を赦すように生まれついた存在ではなく、この時代に密林が覆う蒸し暑い戦場において互いに銃を向け合っても自らが先に銃を下ろして駆け寄って祈ってやり、あるいは自軍が出払って手薄になった基地に押し寄せる数十人の特殊部隊を瞬時に抹殺できる地雷のスイッチを握りながらも押さないように生まれついた存在でもなく、誰よりも先に誰よりも厳しい状況に身を置きながら自らを神の品性に正して神の御前に認められた者なのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。