CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

理想世界

神は言われた、「霊も肉も新しくせよ。理想世界を成すときが来た」。神の歴史はその言葉に則って今日も進行している。この言葉は根本的には神を認めることを指すものであり、また神が地上に送られた救い主の価値を復興するものであり、彼の口から語られる神の言葉に対する権威を認めることであるが、神の言葉はひとたび下されると神の歴史を直接目撃していない世界においてもそれに従って動いていくのを見ることができる。

ある国において指導者が変わったが、彼はその国ではかつて見られなかった新しい事を成し、彼自身もまた「新しい」という言葉を口にし、新しい世界を築こうとしているのを見ることができる。彼の言葉には神が欠けることなく、それゆえ神が彼を選ばれたのを見ることができる。真に神は主の主であって、思いのままに人に国を与え、また取り去られる方である。

しかし他方ではこの地球という神の対象が疫病に悩まされている今も衰えるどころか以前にもまして暴虐が満ちる世界の様相をも見ることができる。ダビデもヨブもエレミヤも皆悪の繁栄を目にして思い悩んだことが分かるが、エレミヤ書を読むと歴史の中で常に神は時に従って運命の車輪を回されたのを見て取ることができる。悪を行う者も一時は栄を手にする時がある。しかし後には神は「その日」を来たらせ、荒廃により「神を侮った民に恥を見るようにさせる」。ところが神はまた言われる、「後の日にはその所有をもとに戻す」。神は懲らしめ、また癒される。それは神が罪を秤にかけて量られ、その耐えがたいのをもって裁かれるゆえである。

神は真理の法をもって善には善をもって報いられる。義人ノアを見ても洪水の裁きはノアが福音を伝えた地域においてその言葉に耳を傾けることをせず、神を侮って性的な放縦にふけっていた者たちを裁かれたのであって、ノアは方舟によりその命を守られたのである。ロトを見てもソドムの地が裁かれた際には彼に属し、御言葉に従う者は命を与えられた。神はまたユダが滅びゆく最中、書記官バルクに対してエレミヤを通じて「何か大きなものを求めるのか。あなたがどこへ行くにも命を賞として与えよう」と言われた。裁きの影響を免れることはできないが、神はその置かれた状況において最大限報いられるのである。この時代も全き義人はある国で十か月の期間拘束されて肉体の苦痛を伴う審問を受けたが、その場所に繋ぎ置かれている者たちにスープが支給された際、鍋の中にたったふた切れしかない一切れがその人に配られたという。彼はそのひと切れこそがその場所において御子が賜った最大限の恵みであったと話される。

このように信仰によって神の恵みを賜ることはできる。しかし審判の日には全ての人が共に苦しみに服することになるのであって、それは人間的に考えたとしても決して望ましいことではない。神に思いを寄せるならば、裁きの時には神の心には積もる悲しみがあるのであり、一方で神が喜ばれる時には世界は祝福を受けるのである。神が喜ばれることが何であるか、何が全きことであることであるのか、それは時に従って神が人を遣わし、その者を通じてその時代に該当する福音を伝えられるのでなければ分からない。そうしてその福音によって人々がキリストを頭として神を恐れることを楽しみとし、神と共に秤にかけて判断し、神の真理をもって悪を拒み、神と共に各々の才能を開花させながら生きたときに個々が理想世界を成し、さらに進んでその知識が全地に満ちる時、この地上に神が願われる真の理想世界が成されると神は言われる。しかし喜ばしきかな、時は既に来たのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。