CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
動物たちのつぶやき

福音

ある人はビジネスに目が開かれて「これから十年後、二十年後には効率化が進んでいく。これから求められるスキルはこのようなものだ」と得意げに話す。「資本主義は沈みゆく舟であって雇用される側だけを考える時代はもう終わっている」と。そして「時間の切り売りをやめてそれにより生じる余暇において人生の意義を考えるようにさせよう」と語る。無論彼はそれで到達できるところには限界があることを知っているとも言う。福音によってその先のことが成されることも認めているようである。その人がそれを行う目的は定かではない。教えてくれることもない。人生の意義を考えさせることにおいて福音を伝えるわけでもないというから一層首をかしげてしまう。もしかしたら彼なりの福音への抵抗なのかもしれない。いつか打ち明けてくれる時が来るのか、来ないまま終わるのか、私は答えを知らない。ただ私は主の教えに従ってその人に接するだけである。

世の中にはいつもこのような「啓蒙」があふれている。「私が先を見越してあなたたちに必要なものを教えてあげよう」という調子のものだ。人々はいつも自分の生活が良くなり栄えることを願っているゆえ、こうした話に耳を傾けながらある者は不安になり、ある者は喜びながら賛同してそれをまた人に説いて回る。そうして「それを手に入れたら生活が良くなるだろう」、「世の中で勝ち上がれるだろう」、そして「幸せになるだろう」と考えながらその「求められる何か」を手に入れようとせわしなく人生の日を送る。

「私はもう手に入れた。これで安泰だろう。あなたはまだ手に入れていないのか?」

知恵ある者は言った、「日の下に新しいものはない。それは既にあったものである」と。過去に全く同じものがあったのではない。しかし本質を見るならばそれは形を変えて現れたものにすぎないのだと、その当時日々世界中から押し寄せる使節のあらゆる「真新しい話」に耳を傾けていた王は悟ったのである。いつの時代にもその当時からすれば新しい変化があり、人々の生活は変容を余儀なくされてきたのではないか。だからといってその変化により生活に窮して飢え死にする者が後を絶たず人口が減ったことがあっただろうか。以前は今よりも変化がなく生活が安定して幸せだったのだろうか。

二千年前、やはり生活に汲々として天国を成せていない人々に向かって主は言われた、「『明日何を食べようか、何を着ようか』と思い煩うな。それらは皆異邦人が切に求めるものである。まずは神を愛し、褒め称えながら福音を伝えて地においても天においても天国を成すように努めなさい。そうすればそれらのものは全てその中において神が与えてくださるであろう」。これが平和を成し、天にも地にも理想世界を成すために神から遣わされたメシア・イエスの福音であった。「福音があなたがたのもとに来た。天国は既に来たのである」。この時代十年の歳月を聖書の預言に従って低き所で過ごされた主は言われた、「環境が天国なら天国か。心が地獄なら環境が天国でも地獄の苦痛を感じる。環境が地獄でも神と聖霊と御子を迎え心が天国ならそこが天国である」。

それゆえ私は思う、「十年後に何が求められるかなど案じる必要がないのだ。ただ今この瞬間神と聖霊を呼び求め、賛美し、栄光を帰そう。神が話された御言葉を脳に刻んでそれを行い、神と聖霊と共に得るべきものを得て共に享受して宴会を開こう。それにより今この時も、またこれからも幸福が私を離れることがない。必要なものは神がまた備えてくださる。これまでそうであったように、これからもまたそうだろう」。

「ただ神の義と御国を求めよ。神が空の鳥や野の獣、野原の花々を顧みられるようにあなたがたのことをもそれ以上に顧みてくださる」。どれほど軽い荷であり、どれほど負いやすい頸木だろうか。「思い煩いを一切神に委ねて」ただ神を愛して生きることが最も平坦な道であり、平安な道であり、かつ永遠な命の道である。人が未来を推測してあれこれ備えるからと言ってそのとおりになる保証もないのではないか。

世の考え、すなわち悩みと恐れと不安の君が広める考えはいつも人々を地の思い煩いへと引きずり込み、彼らがしばし不安から逃れようとの思いに付け込んであらゆる浪費と快楽の罠へと導いてきた。しかし愛と平和の神が臨んだ「平和の人」が伝える福音は常に人々に平安をもたらし、喜びと希望を与え、生きる力と幸せを与えてきた。主は言われる、「福音とは神の祝福の言葉である」。

「知者」たちにとって宣教は愚かなものかもしれない。「ひとたび『優れた者』がシステムを構築することによって自ずと世の人々はそのシステムの提供する動機づけに従って目標とするところへ動いていき、しまいには『最適な状態』が成されるはずだ」と彼らは考えるからである。地道に福音を一人一人伝える必要もなく、福音を伝えるために自らが犠牲になる必要もない。しかし合理主義のもとでは常に人は一方ではシステムに沿いながらも他方では抜け道を探して束縛を逃れようと行動し、システムを形骸化させようとする流れが生まれる。必要なところに必要なものが行き届かないとしても動機付けによって網羅できない部分は仕方がないものとしてみなされる。

一方で神が預言者を通じて語られた言葉はこうであった、「エホバを知る知識が地に満ちる時に理想世界が成される」。そしてその言葉を成されようと神は「宣教の『愚かさ』によってその知恵を人々に見出すようにされた」のであった。確かに目の前の一人を伝道するにも時間はかかる。しかし福音を受け入れる者の数は日に日に着実に増えていく。そうして天国を成した個人が家庭で天国を成し、それらが集まって民族が天国を成し、遂には世界の天国が合理主義によらない神を愛し兄弟を愛する愛によって成されるようにと神は順理をもって導かれているのである。

人が神を呼び求める時から平安と幸福が心に満ちるようになる。自らが思い描く理想が成される時になってから神に顔を上げようとしたら一生の間顔を合わせることもなく人生の日が沈むだろう。その「理想的な」状況が成されたら成されたでまた「神に向き合うより前に」気を遣わねばならない別の「不幸な要因」が常に付きまとうのではないか。預言者イザヤは言った、「主があなたを呼ばれる時に主に近くせよ」。人が神に呼ばれる機会は決して多くはない。人生一生のうちに二度あるかないかである。その時を逃せば状況が変わって福音を自らに伝えてくれる人も見出せなくなる。その機会を逃したら神との永遠な離別になることもあるのである。まして神が直接臨まれるメシアに会うことができる期間はその人が肉をもって生きる時代ごとの初めのいくばくの期間にしかならず、霊界において神と顔と顔とを合わせて生きることのできる最高の核心地に行くことは地上において彼をつかまずして成されることはない。

メシアは人の子として地上から来られる。それゆえ神の言葉は人が語ることを通して伝えられる。そしてメシアもまたその清められた群衆を通じて思いがけない時に一人ひとりのもとを訪ねられる。その言葉が人生の問題を解決し、かつその人が語られたとおりに成されていくならばそれは福音であって、自分の霊さえも永遠に救っていかれる方がこの世に来たのである。その姿形を見て自らと同じ人間であると侮ることなく、その福音のゆえにメシアとして受け入れて最後まで福音を抱いて従う者は幸いである。メシアを証する使命を生まれ持ちながらも自尊心のゆえに主を拒み、その代償として使命も命も奪われることとなった洗礼者ヨハネを見て主は言われた、「私につまずかない者は幸いである」。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。