CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

神の言葉を通じて見る日常

前回から一年以上が経って祖父母に会いに行くことになったが、祖父に関しても祖母に関しても目に付くことがあった。祖母は私と母が滞在する間さながら機関銃のように途切れることなく話し続けるのであった。かつては祖母がそれほどまでに話す人間だとは感じたことはなかったが、話の古今を問わず相手の反応も気にすることなく語り続けるその声はややもすれば神経を逆なでするような感覚さえあった。

「話すことに脳が興奮している」。

祖母は祖父と二人でいる時は祖父の批判をすることが非常に多いと聞いたことがある。母が度々祖母からの電話を受けるのも知っている。

脳を誤った方向で興奮させるのは恐ろしい。血気に脳が興奮すると感情の向くままに一通りやってしまうまでは収まらない。話すことも度が過ぎれば騒音でしかない。人の批判をすることもその方面で脳が興奮すればそれによって聞いた人を死に追いやることさえもある。歴史的には神を待っていた人々がキリストを十字架に付けたのもそのような誤った興奮からであった。

愛も盲目になると言うが、異性的な愛で興奮すればそれはそれで相手を喜ばせようとあらゆることを行おうとし、極端な欠点でさえも目もつぶってしまうゆえ良い面もある。しかしその興奮の冷めることを知らなければ後では互いに「怪物のように後を追ってくる短所」のゆえにひどく後悔することになる。同じ相手を愛するにしても神がキリストを通じて人間に教える永遠性のある霊的な愛をするのでなければ決して長く続くことはなく、互いが赦し、覆い、また学びながら神の前により磨かれた存在になっていくということがない。それは伴侶しかり、その間に生まれた子供たちに対しても同様である。

神に対する愛は酔ったとしても害になることはない。真理によって裏打ちされた確かな道を歩みながら興奮して行ってこそ、自らが想像もし得なかったようなことを成し遂げるようになる。主は言われる、

「かつては完成していく神の偉大な宮を前にして、絶え間ない労働も、数十トンの巨石群が幾度となく崩れる恐怖さえもものともせずに建築に溺れたが、今は岩一つを積むことさえも恐ろしい」。

そうした経緯があって今や彼の故郷は彼に従う数万の人々が集まる場所となり、長年の経験を積んだ建築家たちも工法を学び、またいかに著名な人間であろうと誰が見ても「美しく、神秘的で雄大だ」と口にする神の宮となったのである。

私が見た祖父母の話に戻ると、一方の祖父は祖母が話し続ける間机にあごを載せながら力なく座り、「自分の楽しみを奪われている」といった言葉をつぶやきながら退屈そうにしていた。彼は母から聞いていたとおり確かに物忘れがひどくなっていたが、以前「話す相手がおらず頭がぼけてきたようだ」と母に漏らしたことがあるという。対話がなければ人の脳は衰えるものである。

私の父も対話に必要な技術が足りず、人の言葉を聞き入れることなく一方的に話すことのみを覚えているがゆえにむしろ彼の話を聞いてやる者がいない。(「人の言葉を聞き入れない者は人からも話を聞き入れてもらえない。人は行ったとおりに報いられるのである」と主は言われる)。それゆえ彼はメディアに浸る道を選ぶが、それはますます脳を衰えさせるだけである。

話は逸れるが、こうした類の者と対話の機会を持とうとしても易しくはない。先日もあまりに母の諫めは聞き入れず、むしろ逆上して幾度となく聞き覚えのある話を持ち出して母を罵り(それもまた彼の行いから来た報いであったのだが)、それでいて彼女の作った料理はちゃっかりと手元に運んでくる彼の姿に腹が立って神に報告してしまったものである。

「彼は一度自身が家庭でしでかす『仕方がない』という行いを外部の人間にも行ってみたらよく(なぜなら「仕方がない」のだから)、自らの忌まわしい行いに対する苦情に逆上する素行を外部でも同様に行ってみたらよいでしょう。きっと半〇しにされて初めて自らが直さなければならないということを悟るでしょう。我々が言葉でしか言えないゆえに彼は我々を侮っているのです。いつまで我々ばかりが無念な思いをさせられて生きなければなりませんか」。

すると不思議なことに彼が私に向かって「いつも間に立ってもらって悪い」と言い出すではないか。すかさず機会をつかんで私は「あなたは惜しむらくは対話がうまくない。人の話を聞くことができなければならない」と伝える。彼は「それは大いにその通りだ。私も職場でそれを経験している」と言う。神は決して義人の祈りに耳をふさがれることなく、かといって速やかに対象を半〇しにされるような目に遭わせることもなさらず、限りない慈しみをもって人間には全くもって不可思議なほどに愛される創造主の心をそれとなく示されるのである。

再び祖父の話に戻ると、彼と二人でいるときにかねてから伝えようと思っていた神とキリストについての話を伝えてみたところ、彼の表情は少し前に見せていた呆けた面持ちは姿を消し、真剣な表情で聖句を読みながら受け答えをするのであった。譬の話、霊界についての話、再臨と終末についての話を伝えると「これまで思っていたのとは全く異なり、決して神話のようなおかしな話ではないことは分かったが、信じることが難しい」と言った。無論「信仰は体験である」という主の言葉どおりであって、彼にもそれを伝えて終わったのだが、私にはその表情の変化があまりにも印象的であった。

キリストを通じて伝えられる神の御言葉は不思議であって、人の助言を聞きつつも自らの意向に固執しがちな主観の強い人間も御言葉だけは時間を出して聞こうとするところがある。かつて主が「全ての者は福音を待っている」と話されたが、人間の霊はやはり神と通じる存在であって、人間は潜在的に真理を求めて生きているのだと感じさせられる。

こうしたいくつかの出来事を通じてもやはり神の御言葉は全てに通じるものであって、この時代のキリストの御言葉があまねく人々に伝えられなければならないと改めて思うところである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。