世の中で普通に生きていても自らの悪い性格のゆえに衝突が起きることはしばしばあり、それにより悪い性格を自覚はすれどそれを直すことを決心することはほとんど皆無だと言ってよいのではないか。言葉では「直さないといけないと分かってはいる」と言うものの、結局は育ってきた環境、生まれつきの性格を口にして合理化することに行きつく。それは自分の悪い性格をも自らの一部として愛着を持ってしまっているためである。
性格を直すに至るには性格を直すための意識と努力が不可欠であるが、それらは必要性を悟り、あるいは何か他の動機付けがなければ生じ得ない。現代社会においては人々は肉的な成功を追い求めてその方法論が多く強調され、また人々の需要を的確につかむためにいかに情報に通じているかが強調され、衝突が起こるならばそれは物理的、非物理的な武力により解消されるように思われる。それゆえ心のわだかまりは解かれることなく解消のための手段としての「力」一層が求心力を高めている。争いはサタンが好むものの一つであり、かの者たちは常々怒り、憎しみ、疎外感、妬みなどの感情をもって人間を互いに争わせてきた。争いのうちに人が自らの感情に溺れて神を忘れ、その犯した罪によって皆がもろともに滅ぶためである。黙示録にはこのことを指して「龍が獣に力を与えた」とある。獣とはダニエル書を読むと分かるようにその時代の価値観を生み出す国、あるいは主権者を指すものであり、霊的な世界においてはサタンがそのような者たちに力を与え、彼らを通じてその思想を人々に刻み付けたことを言っているのである。
信仰の世界においても信仰は強調されども自らの性格を直すことが説教となるのは非常に珍しい。このような説教は聖書全体を見てもパウロの手紙で時折触れられているくらいであって、まさにキリスト・イエスを除いてはそのことについて触れている者はほとんどいない。イエスは自らは「律法を完成しに来た」と話され、行いもさることながら精神・考えの次元において神の御前に清く、柔和で、謙遜で、慈しみ深く、従順で、平和を成すべきことを説かれた。「神が完全であるようにあなたがたも自らをつくり完全な者となりなさい。そのように行う者を神はご自身を愛した者とみなして天国で共に住まわれる」。なぜイエスがこのような説教をされたかといえば、まさにイエスご自身が御自らをそのような品性につくった結果として肉においても霊においても多くの恵みを刈り取られたからではないか。単に犠牲を強いるばかりで何も得ることのできない寛容さや平和ならばどうやって見えない霊の世界だけを信じてそれを継続し、かつ人にも促すことができるだろうか。この世を生きながらえる間はこの肉の生が信仰の基盤であって、肉においては何も刈り取れないのであればその肉は力を失い信仰生活を継続することさえ立ち行かなくなるのである。
とはいえ信仰にある者とて性格を直し平和をつくりだすことは易しいことではない。しかし信仰のうちになく自らの考えに従って生きた人生の日々よりは易しくつくることができる。主が話されるならばそれは必ず成り、ひとたび「直しなさい」という言葉が出るからにはそこに必ずや直すことによって避けるべき禍があり、直すことによって受けることのできる祝福が存在することを察することができるからである。神の言葉は「このようにせよ」、「このようにしてはならない」であって、理由を詳細に述べることはない。もしその理由を述べることによって人間がその言葉に従うならばそれは神への愛や信仰によるのではなく人間的な損得勘定によって行ったこととみなされるためである(神が行われることに対しサタンがいかに詰問するのかはヨブ記において克明に見て取れるであろう)。しかしその言葉を信じて行う者はそれによって禍を免れ、祝福を受けて神の全知全能さとその愛を悟るようになり、行わなかった者は禍に見舞われるか得るべきものを得られなかったことによってやはり同様に神の御力を悟ることになる(無論得るべきものを逃したことに気づかないことこそが裁きであることもある。二千年前、イエスに背を向けた者が受けた裁きはまさにキリストを逃し、それにより救いを受けられなかったことであった)。神を愛するならばその真意を悟って行動に移すことが神の願う姿である。かくして「平和を成せ」という御言葉が宣布された後では自身の寛容さと平和をつくり出す努力が求められる場面に必ず出くわすことになる。それゆえ信仰者はその言葉を意識しつつ生活することで常に直すべき自らの性格と向き合うことになり、かつそのための祈りに応じて聖霊がその心を授けてくださることによって自分一人で努力目標として取り組むよりは易しくそれを成すようになる。そうして避けるべき禍を実際に避け、祝福を実際に受けるならばその価値を悟り、継続してそれらの行いを保持すべく努めるようになるのである。
この時代も自らを神と心情が一体になるほどつくられた方はご自身がつくられたとおりに弟子たちに自分自身をつくるべきことを教えられる。そのようにして人々を神の前の花嫁にふさわしい人格につくり、肉においても幸いを得、霊においても神と共に住まう黄金の都に住まうように導かれている。説教は説教者の生活の水準、人格の水準に従って出てくるほかない。イエスが生活を通じて御言葉を語られたように、その方もまたご自身の一週間の生活を通じて与えられた啓示をもって安息日に御言葉を伝えられ、かつその言葉どおりに実践しながら日々得たものをもって週の間もさらに深く、かつ実体験をもって力強く御言葉を伝えられる。このようにして今日も命の泉は渇くことなくあふれており、価なしで私たちに分け与えられている。