CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

待ちわびる心

福音を伝えていると付き合いにくい者がいるのも事実である。自己中心的な判断を働かせてまるでこちらの生活というものを考慮せずに日程を提案してくるかと思えば、ある時はこちらが普段から余談を挟まず連絡すべきことがあって連絡しているにもかかわらず数日間音沙汰がなく既に遅くなってから返してくる者がおり、甚だしきに至っては百五十通を超える連絡や問いかけ(誤解のないように言っておくと、こちらは相手との約束に従って行っている立場であって、たったの一つも強要もなく、余談もない)にも沈黙を続けた末にこちらが耐えかねてある事柄に明示的に「要返答」の旨を明記して初めてそう遅くないタイミングで丁寧に返してくる者さえいる。
このような者たちを見ると「姿も見えるし、明確に言葉も通じる人間に対してさえこうなのだからいわんや姿の見えない神に対してはどれだけ関心を払わないだろうか」と考えずにはいられない。それでも彼らは程度の差はあれど神を受け入れているのである。

彼らのうちのある者は会うたびに悩みの中にいると話しながらもどこか神と距離を置き、まるで「神には時間は出せないが神の持つ祝福はもらいたい」とでも言うかのような揺れ動く葦のようにも見えてくる。またある者はある時「今週問題が解決されるだろう」という御言葉を聞いたにもかかわらず特段反応を示すこともせずにいつもと同じようにただ時間を送り、切実に祈ることも御言葉をもって行動を起こすこともしない。そのような時に神の言葉を信じて従った者は、頭となられる方をはじめとして肢体もまた事実その言葉のとおりに得たのである。

「ああ、これではどうして神の祝福を受けられようか。彼らはあまりにも自己主観の中で生きていて神の力も他者の存在も何もないのだ。これまでも幾度となく困難や悩みから抜け出す機会の訪れを示唆した御言葉が宣布されてきたにもかかわらずこのように自らの判断や感情を優先して神に委ねて行動を起こすことなく機会に背を向けてきたのだ。これからもそのようにしながら同じ境遇の中で生きていくのだろう。真に彼らが福音を伝えるべき相手なのだろうか。彼らよりもっとはっきりと受け入れる者が現れはしないだろうか」。

もどかしさからこのようなことを神に告げたのは一度や二度ではない。それでも対話を重ねるうちに神を信じて福音を学ぶことに投資することの不安を打ち明け、それが解かれて少しずつでも前進が見られ始めたとき、あるいはまた他の者が長い長い数か月にも及ぶ沈黙の末に丁重な言葉で口を開いたとき、ふと神の彼らに向かう心情を悟らざるを得ない。この世でいかに良心的に生き、容姿も整い、そのわざに力があり、才気に富む者がいたとしても彼らが神を受け入れないならば神にとってその者は関心の的となり得ず、むしろ自分勝手に振る舞うように見える人であっても「神を受け入れる」と告白するその人に神はご自身との間で成され得る愛を見出し、また短いとしてもごく稀に節度をもって神に向かい口を開くその人の言葉が神の耳にふと届き、神はその視線を巡らせられるのである。

神はこのようにご自身との真の愛を成し得る人間を求めて六千年の歳月を片思いを抱きながら導いてこられたのである。しもべが主人を褒め称える愛、子が父を絶対的に信じて従う愛、そのような愛もまた神は喜びをもって受け取られ、その豊かな恵みを施されながら人間との愛を成してこられたが、天地創造この方神が真に願われた人間の姿はご自身の心情までも推し量りながら自らご自身の願いを成そうと心も体も尽くして生きる恋人の姿であった。

今この時代、そのような時が既に来ている。アダムとエバの堕落とは何であったのか、サタンとは何者であり、何を目的として人間に悪を植えるのか、イエスが叫ばれた復活とは何を指しているのか、神と聖霊がご自身の形象に人を創られたのはなにゆえであったのか、その全ての謎は解かれて我々の前で叫ばれている。再び来られる御子と共に引き上げられることを望むけれどもそれはいかなる基準、原理によって成されるのか、「正しく学んだときに正しく御心を成すことができる」と主は言われる。「成される方法でやったら誰がやっても成される。成されない方法でやったら誰がやっても成されない」。成される方法を知っている主はまた言われる、「私の荷は軽く、私の頸木は負いやすい」と。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。