ふと手が空いた瞬間に願っていたことを小さくとも行うことでそれが自らの足掛かりを作り、長いこと願って祈っていた道に進めるようになることがある。それは思いがけない時に訪れ、その形は自らが願っていた形では来ないことが多い。
そしてその瞬間、もしも人に尋ねて行動したら運命が変わってしまう場合がある。人間の意向によって支配される瞬間に転じる可能性があるからである。あることが結局は人に尋ねることになるのだとしてもやはり初めに伺うべき相手は聖三位でなければならない。そうして話しかけたときに三位の声が聞こえてくる。それははっきりとした言葉のときもあり、やろうという心持になるいわゆる聖霊の感動というものでも応えられることもある。その時は答えがなく後で人を通じて答えを下さることもある。
機会をつかむために最も重要なことは捧げた祈りを忘れないこと、そして自分の考えを空けて状況を見つめてみることである。祈ったら御心に反しないことであれば神も聖霊も状況を変えられ、環境を移して最もふさわしい形で成してくださり、考えを与えて働きかけてくださる。しかし心が変わっていれば機会が来てもそれをつかもうとせず、自らが思い描くかくあるべきという認識が強ければ機会が来ていてもそれをそれと分からずあれこれと理由をつけて見送るようになる。
成される形がそうであるように、時についても同様である。自分が計画していた時には既にそのことの機会が過ぎ去っていることが多い。それよりも前に機会が訪れて準備が十分にできていないこともある。それでもそれが神が定めた時であることが多い。なぜ人間の想定よりも早く行われるかといえばその時が神が見るにさまざまに条件が整った最も理想的な時だからである。あるいはあらかじめ御心のうちにその時を定められていることもある。
「神は時に合わせて行われ、後に遅らせることはない」。これはその時が来たら神は徹底的にそのことを行われ、後でまた行おうと手を緩められることがないということでもある。それだから人間が「すみやかに事を成される」神に同行するためには祈りを忘れず、自らの認識を捨て、やる時には小さくしかできずともその時に行い、かつ「この時が機会だ」と徹底的に行うことであると主は言われる。「神の前に練習はない」のだと。
機会は瞬間訪れる。あることはたった一日のうちに来て過ぎ去る。あるものはもっと短く数秒のうちに来て去っていく。その時にできなければ状況が変わってしまって次の機会はいつ訪れるか分からない。あることは一、二年経つとまたつかむことができる。あることは皆既日食のように一度逃せば数十年経ってようやく出会うものがあり、あるものは一生のうちに二度とは鉢合わせる機会が来ない。そしてそのことの結果が永遠な自分の霊魂の運命を左右する場合もある。
「人の子は思いがけない時にやって来る」。時が来たなら認識を下ろして見たときにその方が既に目の前で言葉を語られているのが見えるようになるかもしれない。歴史は参加する者には分かるが参加しない者には成されていないように見える。「盗人のように来る」と言ったのはそのことである。