信仰者がそうでない者と何が異なるかと言われれば霊の世界を考えて生活しているかどうかだろう。食べる、寝る、洗う、仕事をする、勉強する、掃除する、料理する/買う、一日のうちでこれさえやれば基本的に肉体が生きうえでは問題がない。しかし「人はパンによってのみ生きるのではない」。世の中に証があふれているように、そして我々自身が生きてくる中で幾度となく出会うように、「肉の体があれば霊の体もある」ということを否定する者はそういないだろう。
霊である神の働きかけについて学び、神の創造目的を学び、霊界について学び、メシアや預言者やその他の中心人物を送って導かれてきた歴史について学ぶならばその深さは底が見えることなく、ある時ようやく少し悟りを得たかと思っても霊の人の考えを聞くならばまだまだ悟れてい自分の姿を見ることになる。悟るための労苦は尽きることがない。ことメシアが送られる時代というのは神は一つの時代を通じて唯一の肉体となるその者を通じて徹底的に語るべきことを語られ、行うべきことを行われる時であるから、その時には御言葉を聞くだけでも忙しく、かつ天の国において神と共に住まうにふさわしくあるように御言葉のとおりに自分自身をつくり、同時に福音を伝えて実体の歴史を成していくからには時間がいくらあっても足りないほどである。
パウロの路程を見ると船に乗って移動したとはいえ十年やそこらで一万六千キロメートルほどは移動している。イエスの姿も常に御言葉を伝えるか群衆がいない夜から明け方に祈られている姿である。十字架の道を行かれながらも悲しむ人々に御言葉を伝え、十字架の上からでも自らの話よりも御言葉を伝えていかれたのがキリストの姿であった。使徒たちの姿も見ると日々祈り、賛美、証であり、投獄されれば手紙によって自分の事情を書くよりもキリストの姿と再臨の時のことについて教え、またどのように生きるべきかを伝えて過ごしたのが見て取れる。手紙にも賛美を忘れるなと書いたように獄の中でも生活の一部として賛美をするパウロの姿が記録に残されている。パウロは「自分自身を鞭打って失格者にならないように気を付けている」と書いたが、使徒たちは人を教える前に自分が倒れないように自己管理をしたことも見て取れる。
彼らのように専門的に全ての時間を投資して万民の救いのために生活をする者もいるが、多くの者は社会生活をしながら信仰を持っていることだろう。しかしいずれの境遇であれ受けた聖霊は一つであって、社会生活をする者もまたその目的は神の前の愛の対象としての自分を磨くと同時に神とその遣わされた者の御心について悟って福音を伝えるべく過ごしている。肉体の存在だけでは終わることができず自他の霊の存在のためにも祈り、賛美し、御言葉を聞き、行い、伝えて生きることをしなければ神の「行ったとおりに成される」という法則のもとでは霊のことについては実を結ぶことがない。それゆえ時には精神は立っているけれども肉体が追い付かないことがあり、そうして健康を失うこともある。
このように健康を失うとやはり人間として苦しみを受けるほかなく、行いの強度も低くなり、気力をそがれもする。行えないことによる苦しみもまたのしかかる。行うことは神の喜びであり、同時に自らも良い方向に変化し、かつ自分という小さな存在を歴史の中で用いられる甲斐もあり、神と愛の経緯も多く築き、人生において霊肉共に得るゆえ確かに祝福である。しかしそれを行うに際して求められるのがより完全な自分自身の管理である。健康を失うことは神の願うことではない。かといって行うことでしか事は成されず、行わなければ本人にも益がないし、神も与えることができない。すなわちこのような多くのわざを手に負えるならば祝福であり、手に負えなければ禍になるのである。
メシアを迎えることは最も大きな祝福である。メシアはは神の御心を伝える人として神が話されることを秘密も愛も叱責も包み隠すことなく伝える存在であり、かつ行いでそれを体現される方である。そして神と人との仲保者として祝福もすれば裁きもなさり、自らが犠牲となって罪を覆ってくださることもすればその一方で徹底して教えることもなさるのが主の姿である。メシアをメシアとして分別し受け入れることができればメシアについて御言葉を学び、それを行う生は肉の一生のみならず永遠な霊の祝福のための狭き道であり、その生を手に負うことができなければむしろ苦役となり、不満となり、その生が禍となる。
人間の力は弱く、考えもまた低いものであるから全てを自分の力だけでやろうとすれば多くの場合手に負うことができずむしろ害になる。ところが神はメシアと共に助け主を送ってくださり、その助け主によって人を悟らせ、感動を与えて行うようにさせ、状況を変えて導いてくださるという。それがすなわち聖霊であって、血肉ではなく聖霊によってメシアも悟り、導くべき人に出会い、思いがけない大胆さで行い、神の前の愛の対象としてふさわしい生を生きることができるようになるのである。そのような聖霊と共に生きる道があるが、聖霊が証する霊の人はこのように話す、「祈りの真の有益は聖霊の感動を受けて行えるようになることである」と。
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