CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

神の祝福

ある人は数十年尽くしてきた人に対して感謝もなく、愛するということもなく、ひたすら自己中心的な好奇心や自己中心的な考えをもってやりたい放題やって迷惑をかけておきながら何が悪いという態度で接する。それどころかやりたいようにやるためには理知に合わない論理で相手を貶める物言いをし、「それだから自分がやってあげているのだ」という建前さえ作り出す。

無論人間は自分がやりたいようにやってこそ満足するものであり、神もまた同様に御自ら願われるとおりに行ってこそ満足なさる。誰しもその知能の水準どおりに行って満足するのであり、それより高いものは思い浮かばないか、あるいは提示されても理解できずに拒絶する。人は好奇心があるときは何が何でもやろうとする。それゆえ好奇心は神が人間を行わせる際の起爆剤として用いられることもあると同時に、人間が自らの水準どおりの好奇心に従って行えばそれは滅びに至る罠となることもある。人間は神と比べれば「知るべきはずのことすらも知らずに生きている」のであり、自らの見える範囲でしか考えることができないという絶対的な法則を考慮すれば、その考えをもってしては地上の理想世界はおろか自分一人が真に満足できる理想世界すらも成すことはできない。それどころかその考えに従って行うことで地上に地獄を造り出すことさえもある。このことは聖書では「自らの目には正しいと思える道もついには滅びに至るものがある」とあるとおりである。

「天が地よりも高いように我が道はあなたがたの道とは異なる」というのは、神が見る世界は地上の世界、魂の世界および霊の世界の全てであって、その創造者としてあらゆる法則と力をもって、平和と愛を根本の喜びとし、かつ神を信じて従う全ての人に満足を与える世界を成す道を持っておられるということである。

神の言葉に従うことは自らの自由を奪うようでありながら、実は神の願いを成す中に自らの願いも全て入っている。その人がどのような個性をもっているのかはその人の初めから終わりまで全てを顧みられる方がその人自身よりも正確にご存じである。神の行われることは地上においては歴史を運行されることであるから、その過程は一つの企業、一つの国家を導くよりも長く、大きく、険しい道であって、その中で必要なことの数は計り知れない。人が神を愛し、その道に従って歩むとき、神はその偉大な歴史の働きの中でその人をもその個性通りに用いられ、人生の中でさまざまな経緯、したがって愛を築きながらも肉だけでなく霊の世界までも満足するに至る生へと導かれるのである。それは自分の考えでは及びもつかないものであって、「人は心に多くの道を抱くが、人の歩みを導かれるのは主である」とエレミヤは歌っている。

一方で人間が神に従おうとせずとも神はご自身に従う者も従わない者も区別なく全ての世界を動員されてご自身の御心を成し遂げられる。それは神が地にある全てのもの主人であるゆえである。もしも自らの御言葉に不従順な者については思い通りにできないというなら神はこの世界の統治者ではあり得ないだろう。神を愛することにより神の願いが自らの願いである者にとっては常に自らの願いが成され、同時に愛する方の願いが成されることとなり、自らの願いが神の願いと異なる者にとっては自らの願いが成されず満足のいかない結果に終わる。これについては「人は心の多くのことを思い図るが、ただ神の御旨だけが堅く立つ」とソロモンが残したとおりである。

神に従順な者も不従順な者も共に神の働きに用いられるが、従う者には義が認められ、愛の御心が成され、永遠な霊の世界に至るまで祝福が約束される。それはまさしく人間との愛こそ神が成されようとする御心だからである。先に「神は地におる全ての者を思いのままに動かすことができる」と言ったが、神が唯一つ思い通りにできないものがその愛である。この愛こそまさに「自由意志」として知られているものである。愛は強要によって成されるものではなく互いの自発的な選択によってのみ成されるゆえに神はあえて自由意志を与えられたのであって、「愛したければ愛するがよい」といった思いで与えたものではない。人間が初めから神のように完全であるように創造しておかれなかったのも、まさに人が神と共に成長し、その成長の中で神との愛を育み、自ら神を愛の対象として選ぶようにとの期待を込められたからである。

モーセの時代に「あなたがたは祝福を手にするであろうが、それを自ら得たと思って神を捨ててはならない」と言ったが、歴史を見るとソロモンを含め多くの王たちが栄えを手にすると共に神への信仰を捨てたとの記録がある。それは神が自らを祝福されたのは自らが神に対してよくやったことへの報いだと思ったこともあるだろう(無論自身の力によって得たのだと思った者も少なくないだろう)。それだから栄えたことに満足してその時から神に対する熱心を失ったのである。しかし神が祝福を与える心というのは報酬というものではなく、祝福をしたことによりその者が喜び、一層神に感謝し、栄光を帰し、愛して生きるだろうという思いであり、また共に享受して喜びを分かち合おうという愛のうちにある者どうしの感覚から来るものである。これは言い換えれば愛の御心を成すための投資であるとも言うことができる。この時代に初めて神に花嫁として認められた者は言う、「私がこれほどにも続けて与えられるのは神が賜ったものを神が賜ったゆえに貴重に思って感謝して使い続けるからである」と。

この肉体の最後まで愛を貫くことはただ歴史について行くだけでは成すことはできない。現状維持をしていくつもりで成すこともできない。いつも恵みを忘れずに感謝し、栄光を帰し、神が下さる恵みを力としてメシアを通じてこの世に与えられる御言葉と聖霊が与えられる感動を実行して自らを開発して神に近づき続けなければならないのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。