CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

人は忙しければ自らが生まれた日すら忘れるものである。大切な日も価値あるように思わなければ価値なく過ごして終わるものだ。

一般的な見方をすれば自分がまた一つ年を重ねたことにさほど大きな意味はない。それゆえ何か特別なものを食べたり、あるいはそれより思想が大きければかつての王たちのように祝宴を催してむしろ他人に振る舞うことで過ごす。ところがこれらのものも一つのイベントであってやはりさほど意味はなく、さほど自分自身が喜びを感じるわけでもない。それゆえ忙しければその日をそのままやり過ごすことも理解に難くない。

しかしながらその日が自分自身のための日ではなく天におられる愛する方と結びついているならばどうだろうか。すなわちその日が自分の肉体の命を守られたことで迎えることができたと見るならばその日にただやり過ごすことはできなくなる。自らの良心がそれをとがめることになりはしまいか。

我々の霊は肉体の行いと神の前で行うその立場によって行く霊界が左右される。たとえ天国に行くとしても、しもべとして生きればしもべの天国に行き、子供として生きれば子供としての天国に行き、新婦として生きるならば新婦の天国に行く。二千年の昔、サマリアの女は偶然にもキリスト・イエスに井戸端で出会い、そこで自らが待ち望んでいたメシアに出会ったと悟ってその喜びと驚きを村中に伝えて回った。サマリアはアッシリアの時代に異邦人の入植が起きて以来異邦人の偶像崇拝とエホバに仕える信仰が入り混じる場所となり、ユダヤ人の間では蔑視されていた地である。しかしメシアを待ち望むそのサマリアの女にイエスはご自身のことを明かされて救いの道を教えられた。そうしてサマリアの女はイエスのメシアであることを受け入れ、それにより彼女は当世を神の子として過ごし、霊界でもまたそのような世界に行くことになった。

そのように神が自分自身を肉体が生きているうちに新しい歴史に引き合わせてくださり、それによって霊の運命も変わり肉の運命も変わって旧時代のもとでは決して得ることのできない祝福を与えてくださったこと、そしてそれは肉の命あってのことであるということを感謝することもその日にやるべきことの一つである。

健康状態が悪くて、またうまくいかない状況が続いていてその日になっても感謝できないということもあるだろう。しかし霊の救いを得て三位と主と永遠な天国において共に暮らす祝福を受けたならまずは根本的な祝福を得ているのであって、その感謝をなおざりにすることはできない。その感謝を述べた後で「それを感謝するけれども肉体が苦しみの中にいて思う存分喜ぶことができない。愛するけれども思う存分愛する力がない。真に健康がかけがえのないものだ。同時に苦しみのもととなっているその状況も解決されなければ三位の歴史のために前進することができない」、そのように話してこそ三位もご自身に尊く接したその者に尊く接せられ、また健康の貴重さと状況の解決の重要性を三位の愛のために、御心のために求めるその者の訴えを聞かれて苦しみからも救ってくださるのである。神が慈しみ深く恵深い方であられると同時に王の王、主の主であることを忘れてはならない。「間違ってはならない。神は侮られるような方ではない」とパウロも言ったのではないか。神はその大いなる力をもって真に「欠けたところのない者には欠けたところのない者となり、清き者には清い者となり、ひがんだ者にはひがんだ者となられる」のである。

弟子たちにもご自身がメシアであることを公言させなかったイエスがサマリアの女にはご自身を明かされたのはなぜだろうか。彼女がメシアを尊く考え、メシアに会うことを待ち望んでいたからではないか。そして喉が渇いたイエスに井戸から水をくみ上げて差し出し、純粋にイエスの実力を認めてメシアの来臨について尋ねることによってイエスに丁重な接し方をしたからではなかったか。誰であれ貴重なものを価値の分からない者に与えようとは思わず、また自身に対して高慢な振る舞いをする者に貴いものを与えようとは思わない。神も聖霊もまたそのようであって、神に貴く接すると同時にメシアの必要性を悟り、かつメシアが自分と変わらない一人の人として現れたとしても神が臨むその体を尊く接する者にメシアという宝を明かされるのである。そしてそれはかのサマリアの女しかり、アブラハムしかり、ロトしかり、ペテロしかり、平素行って備えているとおりに現れることになるのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。