主を信じる者ならば誰もが「天国」という言葉を知っており、そこに行きたいと願うであろう。天国については二千年の昔主イエスが肉体をもって御言葉を伝えられた時代にキリスト自らが口にされ、またパウロが一部触れて聖書に記録されている。天国というのは霊界の最高峰の世界であり、聖三位の御子が昇られたその世界をパウロは「第三の天」と呼んだ。主イエスが行かれたパラダイスは第二の天であり、そこは天国の門が開かれるまでの間新約時代イエスをメシアとして信じて救いを受けた者がとどまる中間霊界にすぎない。旧約においては彼らが待機した場所はサムエルが「地から上ってくるのが見えた」ように地上の善霊界と言える霊界であった。
一方で暗闇の世界は黄泉と呼ばれる世界があり、そこは灼熱の世界であり、「水一滴もない」世界だと描写されている。さらに下にはひたすら落ち続けていく底知れぬところがあり、果てには地獄が存在する。この世界は「火が消えず、うじが尽きることのない」世界であり、一度その世界に足を踏み入れれば永久に出てくることはできない。
以前私は霊界は肉体が生活して霊が形成されたとおりに行くことになり、その世界は数万層にも分かれていると言った。しかし実はパラダイスが中間の世界であり、結局は「神のおられる御住まいに家を用意されている」ように霊の行きつく先は永遠な地獄か永遠な天国のいずれかであって、それ以外の霊界は全て一時的な場所にすぎない。
ペテロが証言しているように、地上で新しい時代の福音が宣布されればその福音は霊界においても宣べ伝えられ、霊たちはその御言葉に従ってまた裁きを受けるようになる。その裁きとはすなわち使徒ヨハネの言うような「受け入れないことにより既に裁かれている」ものであって、新たな時代の福音を受け入れることで新たな身分を授かるか、受け入れないことにより「神に拒まれる」かが決まっていくものである。
歴史は繰り返すが、それは以前できなかったことを行うためにさらに高い次元で繰り返すのであって、時代が移るごとに人は神の御前にしもべであったところから子として認められるようになり、子であったところから花嫁として認められるようになるのである。果ては神の完全な愛の対象として成長することであって、この六千年の歴史は天地創造以来その一つの愛の目的のために神によって忍耐と寛容と限りない愛をもって運行されてきたのである。「全てのものは虚しく天に返ることがない」のであって、神が人をただ有限な肉で終わらせ、その都度ただ慈しみを与えるために人が創造されたのではない。
モーセを通して語られた律法のうちの第一の戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、命を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」であって、それ以外の虚しいものを愛するときに神は「妬む」とおっしゃった。妬みというのはあまりにも愛するゆえに表された言葉であって、使徒ヤコブもまた「『神は私たちのうちに宿る霊を妬むほどに愛しておられる』と書いてあるのは虚しいことだと思うのか」と話している。使徒ヤコブのこの言葉は彼自身の言葉ではない。主イエスが弟子たちにそのように教えられていたということである。なぜならゼベダイの子ヤコブはもとは漁師であって、聖書の知識など有してはいなかったからである。愛するゆえにアブラハムを先に祝福を与えようと計画して導き出され、愛するゆえにカナンにおいて「イスラエルの労したものではない地と食物を与える」と約束されたのであり、愛するゆえに預言者イザヤの時代「ノアの時のように」滅ぼしてしまいたいほどに心を痛められながらも「私は決して再び滅ぼさないと誓」われ、「若い時に追い出した妻を再び招く」ように人間がご自身に立ち返ることを望まれたのであり、愛するゆえに「子らのうちでどんなにか良いものを与えようかと思いをめぐらせた」のである。神を愛することを神が願われるということはイエスご自身もそれが「第一の戒めである」とエルサレムで十字架にかかられる直前に言い遺されている。
したがって神を愛し、新しい福音を受け入れてより神の望まれる水準で自らをつくる霊たちはしまいに天の国へ昇り、そのうちに住まいを授かるようになり、福音を受け入れずメシアを拒む霊は神を拒むのであって、そのわざにしたがって自らの罪のうちに果てしのない暗闇へと自ら下っていくことになる。
時折「私は善霊界でも構わない」と御言葉を知る者で自らの行いに寛容に接する者もいるが、それは天の国の根本を知らないゆえにそのような誤った思考に陥るのである。自らの行いの足りなさを認め、それに見合った霊界に行くだろうという点では正しい。しかし天国とはいかなる所であるか、それは霊界における最高峰であって、神の寵愛によらずして人が自らの義では行くことのできない場所である。メシアのみが人類の初穂として時代ごとにその子たる身分を受けるにふさわしい、その花嫁たる身分を受けるにふさわしい条件を積むことによってその世界を切り開くのであって、それ以外の全ての人間はキリストという存在から学ぶ立場にすぎない。神がキリストを通じて人々を愛して救いを与えられ、それによって「用意された御住まい」にて「共におらせる」と書いてあるとおりである。自らの行いの義の価で「程度の差」によって天国に行くかのように思ってはならず、不従順でありながらもなお「義の程度の差」によって「義人の住まう世界」に行くことができると考えるのは誤りだということだ。
使徒パウロはこのような観を「他人に救いを説いておきながら私自身が失格者にならないために自らの体を鞭打っている」と表現した。私自身もしばしば罪の誘惑を来たらせるほど弱い者であって、常に罪と向き合わなければならない立場である。それゆえ義を行うように体質をつくらねば生涯を義で全うすることは難しい。日々「うむことなく聖霊に燃えて熱心に主に仕えて生きなければならない」というのは同様に生涯を義で全うしようと勤しんで生きたパウロの真実な告白であるのだと悟るほかない。
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