CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

運命共同体

前回私はヨナタンやヨシヤ、バプテスマのヨハネを例に神が働かれる人を見分けついて行く知恵を求めるべきだと書いたが、似たような話が運命の話だ。

使徒パウロはアダムとイエス・キリストについて「ひとりの人の罪によって死が人類全体に入り込んだように、ひとりの人の義によってその恵みが全ての人に満ち溢れた」と書いている。

アダムは「きたるべき人の型であった」とあるとおり、彼は宗教の初めの人として全ての人類を代表して神の愛による御言葉を受けた者であったが、彼自身の代表としての自覚の有無にかかわらずその御言葉への不従順によって全ての人が神の御言葉に不従順であったとみなされたわけである。これによって一つの時代が神との愛を成すべき存在として寵愛を受けた存在から万物よりも低いしもべとしての立場に落ちることとなった。

同様に主イエスは「召された者の長子」、すなわち人類の代表であって、彼が「涙と叫びをもって祈り」、絶対的に神の御心に従順であったことによって全ての人類が神に従順したとみなされ、その時代が新たな神の子女としての時代へと復活したわけである(無論彼を受け入れることを拒んだ者たちは旧約のしもべの時代に閉じ込められ今なお同じ苦痛を伴う信仰生活を生きている)。

アダムから始まった旧約の歴史はエデンの園という小さな場所から始まり、やがてイスラエル民族に対する御心となり、その時ごとに中心となる人物を通して裁きも受け祝福も受けた。

ノアの時代、ノアが神を愛したことによってノアを通して神はその家族を救い、ノアを受け入れなかった者たちはその地域に起こった洪水の裁きによって滅ぼされた。アブラハムが義と認められたことによってイスラエルは繁栄を約束され、一方ではそのアブラハムが捧げものを失敗したことによって子孫が四百年の刑罰の期間を過ごすこととなった。ヨセフがエジプトに下ればヨセフを通してエジプトは飢饉を免れ、またイスラエル民族もエジプトの最良の地を受けて栄えた。ヨセフがいなくなると次第にイスラエルは約束された刑罰の期間に入り苦役を強いられることになり、神がモーセを送るとモーセによってイスラエルはエジプトを脱出し平穏を得るようになる。モーセのゆえに民はその罪を赦され滅びを免れ、モーセのゆえに民は荒野で生きる食料と水を得た。しかしモーセに立ちはだかったことにより民はカナンの地に入る望みを失った。その後モーセに代わり指導者として立てられ神を頼んで大胆に行ったヨシュアを通してイスラエルはカナンの地を手に入れた。サウルがまだ主に捨てられなかった時代はサウルによって国は勝利し、ダビデに御心が移ってからはダビデによって国は勝利し、ダビデのいる所に平穏と祝福があった。ダビデから離れて敵対したサウルは国に侵略が絶えず、遂には自身と共に国はパレスチナに敗れ去った。ダビデが王となって神に栄光を帰すと国は平穏を得るようになり、平和と栄を享受した。ソロモンも神に真実であった時には国は戦争がなくかつ富も得るようになった。ソロモンが偶像に仕えると国は乱れその子の時代に分裂し、再び外的に脅かされた。その後の北イスラエルと南ユダの歴史を見ても王の行いとその国の運命は同一であったことは明らかである。

新約の時代、イエス様が迫害を受け肉で死に至れば弟子たちも皆殉教の道を歩むこととなった(それはこの国とても例外ではない)。それだけではなくイエス様が伝えてまわったイスラエルはイエス様の死後ローマによって壊滅し、エルサレム聖殿も紀元後七十年に「石の上に他の石が一つでも残ることはないであろう」と言われたとおりに粉砕された。福音の中心圏であるローマにおける四百年の迫害の後にその教えが国教の位置を得、以後その福音に基づいて統治したフランク王国はヨーロッパ世界を征服した。しかしやはり教皇庁に腐敗がはびこればバビロン捕囚に並ぶアヴィニョン捕囚が起こった。二千年に及ぶ新約時代全体を見たとき、キリストの教えは世界中に広まった。それは受け入れていない民族がほぼ存在しないと言うことのできるほど「全世界に福音が宣べ伝えられた」のである。そしてそれを国教として掲げる欧米を中心としてこの一つの時代が動いたことは否定しがたい事実である。時代における科学の発展もまたその教えを信じ神を知ろうとする人々によってもたらされてきた側面がある。一人の人によって世界が福音にあずかり、またそれを受け入れた人々によって科学技術の発展ももたらされてきたということではないか。

「私は再び来る」との約束を成す新たな時代においてもまたその一人から始まって時代全体が恩恵を受け、反面まかり間違えば時代全体が艱難に見舞われるようにもなるだろう。

このような国や民族を左右する祝福と裁きがある一方で、個人を見ても同様の働きかけが観察される。アブラハムの時代、ロト一人がソドムの町で義人であり、彼を通して神はその妻と娘を救われ、ロトを受け入れなかった町の人々は火と硫黄の裁きによって滅ぼされた。ヤコブによってラバンは栄え、ヤコブと所有を分けるやラバンは衰えた。祭司長エリが子供たちにしかるべき処置をとらなかったためにエリも呪われた死に方をし、かつその家系も結局は祭司が絶えるようになった。北イスラエルにおいてはエリヤが訪れたザレパテの女は子供も生き返り、また経済が栄えた。新約に目を移せばコルネリオの祈りと捧げものの義によって異邦であったその家全体に救いが訪れ、パウロによって船人たちも囚人たちも漂流のさなかに一人も死ぬことがなかった。

ここで何を言おうか、私たち一人ひとりも同様だということだ。一人の行いがそこに属する人々皆に影響を与えうるのである。一人の義人によってその家族も神に覚えられて病から命を救われることがあり、本人ではなくその子供に頭痛を引き起こして導き出させて当人が事故から助かるようにする場合もある。命のこともあるが、経済的なこともある。そして肉のことだけではなくさらに尊い家族の霊の救いが左右される場合もある。たしかに「父の悪を子は負わず、子の悪を父は負わない」。しかし王の妻として迎えられるならばその家族は王族として顧みられるのである。

自らが人類の代表であるとは知らずに歴史を壊したアダムは必ずしも私たちと無縁ではない。私たち一人ひとりを通してその場所に成そうとする神の御心があり、そこから興る歴史が中心で起こる歴史を強めもし、弱めもするのである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。