今日は聖霊が母を通して私にものを書くように導かれた。母は愛の豊かな人ではあるが、いまだ聖書を人間的な視点からだけ読みがちであり、聖書が神によって神の視点で書かれた書物だということにあまり馴染めていない。
サムエル記下を読んで母は私に「なぜヨナタンが死ななければならなかったのか」とつぶやいた。「ダビデを裏切らなかったどころか愛したのだから死ぬはずがないのではないか」と言う。私が思うにこの話はヨシヤ王の話によく似ている。
預言者イザヤの時代に神をより頼んでアッシリアを退けたヒゼキヤ王の後を継いで王位に就いたマナセとアモンは代々罪なき血を流し、かつ偶像に仕えて止まなかった。アモンは結局は謀反に遭って殺され、ヨシヤは八歳で王となったわけであるが、ヨシヤは父と祖父が行ったその悪を除き去ろうと偶像を徹底的に破壊して回った。それから神の宮を修繕し、律法の書が発見されるやいなや悔い改め、その後も神がエジプトからイスラエルを導き出されたことへの感謝を表す過越しの祭りを復興させるなど神を喜ばせることを多く行った。「後にも先にもヨシヤのような王は起こらなかった」とあるとおりである。
しかしある時エジプトからネコ王がカルケミシュを討とうとユダを通ることがあったが、ネコは「私と共に神と争うことをやめよ。あなたが滅ぶことになる」とヨシヤに告げたにもかかわらず、ヨシヤは一度は聞き入れるものの結局は鎧を着て再び出て行ってエジプトの軍隊と戦って戦死する。
これを見て「なぜヨシヤが死ななければならなかったのか」という疑問を持つ者もいる。しかしこれはヨシヤが人を通して神が働かれるということを分からず、かつモーセ以前のエジプトにおける苦役の記録からエジプトに対する先入観を持っており、さらには神に祈ることをせずに人の話に耳を傾けて心を翻したことの結果なのである。
この歴史に残る事件は単にヨシヤの悲劇では終わらない。当時のユダは周囲をバビロン、アッシリア、カルケミシュおよびエジプトに囲まれている状況であり、いわば風前の灯にすぎない存在だった。それを神が顧みられてエジプトを通してカルケミシュを討とうというものだった。イザヤ書にはこのように預言がなされていた、
「その日エジプトからアッシリアに通う大路があり、エジプトはアッシリアに、アッシリアはエジプトに通い、エジプトとアッシリアは共に主に仕えるイスラエルはエジプトとアッシリアと三つ共に並び全地で祝福を受けるものとなる」。
エジプトは軍事大国、アッシリアは帝国としての文化を有し、ユダは神に最も近い民族だ。ユダを中心とした壮大な帝国が神の構想にはあったのであるが、エジプトを通して神が働かれたことを悟れなかったヨシヤの無知によってそれは崩れ去り、メシア・イエス様を迎える土台はそのような理想世界とは程遠いローマ帝国の前の小さな地域になってしまった。メシアが降臨する前の歴史もマケドニアやペルシャなどによる熾烈な迫害が絶えないものとなったことはマカベウスの書に克明に記されている。
またこのような例としてバプテスマのヨハネも挙げることができるだろう。彼は父ザカリヤに明確な啓示を与えられて生まれたエリヤの使命を持った人間であり、キリスト・イエスを証するために生まれた。彼は祭司の家の生まれであり、かつ神の啓示を受けて力強い悔い改めのバプテスマを授ける人間であったから祭司長らが人を送って「あなたはどなたですか」と訪ねてきたほどであった。「もしかするとエリヤかもしれない」と思ったからである。ところが彼は自らの使命が分からず「荒野に呼ばわる者の声だ」というはっきりしない回答を示した。それにより彼自身も「なぜバプテスマを授けるのか」と異端扱いをされ、またイエス様も「ヨハネがエリヤだ」と言ったけれども信用されない有様になった。
結局ヨハネはイエス様と離れて自分の弟子たちと行動し、証の使命をせずにヘロデ王の婚姻に口を出しているうちに投獄され、獄中から「あなたが来るべき方ですか」と弟子を送ってイエス様に尋ねさせるほど落胆と困惑に陥った。そうしてやがてヨハネは陰謀により処刑されたことは周知のとおりである。自らの土台を失ったイエス様は十字架の道を行かれるよりほかなくなった。やはり神が働かれる人が誰なのかを分からずに自分の思いのままに振舞った無知が歴史を壊してしまったのである。
ヨナタンの話に戻ると、彼もまたダビデのもとに下る機会は再三あったにもかかわらず最後までサウルのもとに残った結果として死ぬ運命に遭ったのではないかと見ることができる。事実ヨナタンは何度もダビデのもとに下ってきて接触している。一方でダビデに食料と武器を与えたとして謀反の罪で殺された祭司アヒメレクの息子アビヤタルはダビデのもとに逃げた後、ダビデから「私のもとに留まっていなさい」と言われて終始行動を共にした結果として死なずに済んでいる。彼のみならずダビデについて回った人々のうちで害を受けて死人が出たという記録は聖書にはない。神が共にされる使命者はたとえ過程では境遇が良くないとしても必ず神が守られ、その周囲にいる人間をも共に顧みられるのである。
イエス様の時代、イエス様が迫害されても最後までメシアにつき従った人々は、イエス様が十字架を負って肉において死なれたためにその影響で肉では共に死ぬ運命を辿ったが、霊では永遠な救いを得た。一方でイスカリオテのユダはイエスを売り払った結果として肉でも呪われ、霊でも永遠な地獄の火に投げ込まれることとなった。時代が邪悪なら平和な時代には賞賛されるべき人間も悲痛な仕打ちを受けることがある。へブル人への手紙にもメシアについてこのように書かれている、
「彼は激しい叫びと涙をもって神に祈り、その信仰のゆえに聞き入れられた。彼はメシアであるにもかかわらずさまざまな苦痛を受けながら御心を追い求め、それにより完全な者として愛され、いと高き救い主として遣わされるに至った」。
イザヤもまた「誰もが彼は呪われているのだと思った。誰が我々の罪を背負っているのだと分かっただろうか」と預言したのではないか。
歴史を見てもこのようであるから、私たちが日々行うべきは絶えず神に祈りつつ、誰が神が共にされる者であるのか、誰が神に遣わされた者であるかを見極め、見出したならその人について行くその知恵を求めることではないだろうか。