CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
日常

肉の思いと霊の思い

近頃考えに生じる罪が熾烈を極めており、寝る時以外は常に悔い改めを続けている状況に直面している。

サウルしかり、ヨブ記のエリパズしかり、歴代誌から分かるダビデしかり、神も聖霊も人に考えを与えてその行いを導かれるのと同様にサタンもまた人の考えに悪い考えを与えて働きかけるのであって、これらは肉の思いと同調して神の御言葉の法に戦いを挑んでくる。人は食欲や睡眠欲、情欲などからなる「肉」、および精神と心の働きすなわち脳の働きにより形成される「魂」(簡単に言うと夢で見る自分の姿が魂だ)、そして真、義(*1)、美および永遠を思う「霊」の三つからなるが、大別するならば肉と霊であって、これら二つの思いは相容れないものである。

アダムとエバしかり、ノアの洪水の時代しかり、ソドムしかり、いずれも情欲に溺れて裁きを受けたのであるが、これは確かに肉なる思いであって神を愛することを忘れて人の間でのみ愛を交わす方向へと心を容易に惑わすものである。パウロもまたコリント人への手紙の中でそのことを指摘し、テモテに対しても「若い時の情欲を避けるように」と言っている。ここでの「情欲」というのは文字通りの情欲のみならず貪欲やその他神の忌み嫌う事柄をも包括して指しているのだが、核心を話すならば、歴史というものは常に人と愛を成そうとする神とそれを打ち壊そうと企むサタンとの闘いであって、幼いうちは霊のことがよく分からないゆえ、まずは成長して神霊な事柄を分かってこそ、愛も含め霊的な事柄を話される神の御言葉を肉的に解釈させて惑わすサタンにも勝利することができるということである。

しかし、霊の思いは異なる。朝に神を賛美し、昼に賛美し、夜も賛美し、そうするたびに喜びが満ちて力を受けるのであって(それは感覚で言うならば自分の霊が咆哮するようなものだ)、かつその喜びは続く。日常を生きる中で困難に直面し、不和に直面し、心が悩まされるときもひとまず祈りで神の前に進み出て感謝し、言葉を交わすならば、その心が解かれて力を受けて立ち上がることができるようになる。神の深い封印が解かれたその御言葉を聞き、聖書に記述されたことをありありと悟る時にはその深いことを明かされた根本の神と聖霊の偉大さを認め、褒め称え、感謝を捧げると同時に神やメシア、預言者、その他歴史上の中心人物たちのその愛や心情を受け、悔い改めあるいは新たな決心も出てこようというものである。これらのことは一度で終わるものではなくいつも続けてその水準を高めながら続くものであって、これらのものこそ永遠な喜びをもたらすものではないかと思わせてくれるのである。

パウロはローマ人への手紙の中でこのように話した。

「善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る」。

これらのことを悟ったのは先の激しい考えの嵐を断ち切ろうと思い立ち、賛美して神に栄光を帰した時のことである。

*1 義:神の願うことを行うこと

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。