CGM New Harmony Church

動物たちの愉快な日常
聖書

使命

Rapture of Elijah

イエスが福音を伝え始められる前、旧約の預言によればエリヤが彼より先に遣わされることになっていたが、果たしてイエスのいとこにあたる洗礼者ヨハネがその誕生の際に「エリヤの霊と力とをもって人々の心を神に向けさせる」と預言されたとおり、人々に当時まだ知らぬキリストの証を立てながら悔い改めの洗礼を授けていた。ヨハネは祭司の家系であり、かつ預言と共に生まれたこともあって人々がその言葉に耳を傾け、かつその言葉には力があったために心を動かされて洗礼を受け入れていた。

しかしそのヨハネは最後まで自らのキリストの証人としての使命を全うできたわけではなく、いつしかイエスとは別に弟子をつくり、イエスの証人としての自分自身を証するようにと弟子に話してイエスとは別に行動するようになっていったことが聖書から見て取れる。そうして最期はヘロデ王の彼の実弟の妻との恋愛について咎め、その反感を受けて処刑されることになったが、イエスを見て当初は「見よ、神の子羊。私が証したのはこの方のことである」と言っていたそのヨハネが獄中から死の直前にイエスに自分の弟子を遣わして問わせた言葉は「あなたが来たるべき方ですか。それとも他の誰かを待つべきでしょうか」であった。

イエスご自身が弟子たちに話されたように、ヨハネは確かにエリヤの霊が共にし、エリヤがかつてアハブという王の時代にイスラエルの人々の心を神に取り戻したような使命を持っていたが、彼の最期はその使命を感じさせるものではなかった。それは使命というものが神から定められた御心一つをもっては行うことができず、使命を受けた人間がそれにふさわしい心を持ってこそ全うできるということを物語っているようである。ヨハネはイエスと行動を共にしてその行いを見て一層力強くイエスを証するべきであったが、離れて行動するうちに歴史の真っただ中にいる感覚を失い、自らの使命を行うだけの心意気が失われてしまったのだろう(歴史は自らが参加して神の御業を体験しないことには確信することができない)。

エリヤもまたアハブから命を狙われて身を隠し、三年半の後に総勢八百五十人にもなるバアルやアシラの預言者と対峙しながらイスラエルの民に生きておられる神を証した時には、神から遣わされた者として民の心を取り戻そうとの強い心をもってその働きを成し遂げたが、その後アハブの妻イゼベルの怒りを前にした時には恐れをなして心を折られてしまい、それ以上神の働きを継続することができず、遂にはエリシャにその使命を引き継いで、自らは天に旅立つこととなった。

そうしてみると、イエスは「(天に昇られたその姿で)また来る」と言われたが、イエスの霊が共にするであろう新しい時代の救いの使命を持つ者は、その使命のみならず、キリストを待っていたはずのユダヤの人々からむしろ迫害を受けて無念にも福音を宣べ伝え始めてわずか三年で肉体を差し出さなくてはならなかったイエスの無念さや、人に向かう神の愛を悟って人々を救おうとしたイエスの心情を誰よりも理解して、イエスと思いを一つにして福音を伝える者でなくてはならないことを示唆しているようにも思える。それはまた、エジプトにおける奴隷としての生活からの救いを待ち望んだイスラエルの民からモーセが出たように、敵国による侵略や彼らへの隷従からの救いを待ち望んだ者の中から預言者や士師たちが出たように、神を待ち望んだユダヤ人の中からキリスト・イエスが出たように、やはりイエスの再臨を真実に待ち望む者の中からイエスの霊が共にする一人の人が出てくるであろうということをも伺わせるものである。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。