「知恵のある女が一つの町を滅亡から救ったが、その女の名前を憶えている者はいなかった」。ソロモンは先代に起こったその出来事についてそう語ったが、アベルを救った女性の名前は聖書には記録されていない。それは記録しなかったのではなく誰もその女性の名前を憶えていなかったからなのだろう。
「町を救った」というのはその内に住んでいる人々の命が救われたことであるのに、人々は城壁が崩されて兵士が攻め入ってきて自らの命を奪うという害が及ばぬうちに助かったゆえにその出来事自体も記憶から薄れ、いわんや女性の名前などは完全に忘れ去ってしまったのだ。これは決して驚くべきことではない。なぜなら我々もまた日常において車の接触事故やその他多くの事故に見舞われそうになるが、自身に危害が及ばなければその場で一瞬冷や汗を掻くものの翌日になればもはやその事を覚えていないのではないか。
しかし一方で肉の命ではなく霊の命を救ったキリストや使徒たちの名前は同じ聖書に記録されているが、有名な使徒のみならず一か所しか登場しないような人物の名前さえ記録されているというのは、霊の命の救いというものが真に霊について悟り、永遠な命について悟り、人の一生の目的というものを悟ることを通じて生まれ変わるようなものであって、肉体において一生の間続く転換をもたらすがゆえに人々に憶えられるからなのだろう。
この世で知恵のある者は多い。経営を通じて、あるいは顧問として多くの課題を解決するところに人生を使う者もいるだろう。しかしそれらの活動をもって人生を使い果たしたところで助けを得た人々は一時の安堵を得るばかりですぐに忘れ去ってしまう。それだから主は言われる、「まずはあなた自身を救いなさい。そうして救いを受けたなら次はあなたが人々を救いなさい」。肉における助けは肉を存在させる上ではなくてはならないものだが、それだけでは一生をかけて残るものは何もない。人が生涯を通じて農作をし、肉の命が尽きる時には永遠に享受することになる根本の救いについてまず初めに知らなければならないのである。
CGM New Harmony Church 動物たちの愉快な日常