主は言われた、「死んだ古いものを葬りなさい。そして新しいものを得なさい」。葬るべきことの中にはさまざまなことが含まれていた。自らの矛盾、怠惰、神の前で約束した時間を守れないこと、人を傷つける言葉、仕事、果たすべき使命、神を絶対的に信じられないこと、見るべきでないものを見るなど肉体で犯している罪、肉体では行っていないが考えでいまだ直しきれずにいる罪、初めの愛を失ったことなど神と聖霊と自らを隔て、より高い愛の生を生きられなくするもろもろのことである。
すると、ある人はちょうど職を変えようと動いていたが、通常は二週間から三週間はかかる過程を残していたにもかかわらず面接を執り行う企業がその週に急に三日連続で面接を設定し、その週のうちに全てが終わったという。またある人は自らが何を葬るべきか祈っても分からずにいたが、一年と九か月取り組んできた執筆活動があるきっかけで電子書籍を先に出版する方向に動いてその週のうちに出版という最終目標にたどり着いたという。もともと予定していた紙の書籍もやはりその週のうちに電子書籍に結びつける形で入稿したものの、そちらは現在処理中の状態にあるというのである。
神がある週に主を通して話された言葉は不思議なことに必ず世界がその方向に動いて成就する。しかしこれらのことをもって祈る中で私は悟った、「神が宣言され、その宣言されたとおりに行われたにすぎない」。人は真に知らずに生きている。これを悟るまで私の目には主が話され、それを神が行われているかのように映っていたのである。どこかそのような感覚をもって神が主に共にされると考えていたが、主は真に神が人へご自身の言葉を伝達される体なのであって、たとえ主がご自身の生活で起こったことをもって神の行われる方向を悟られて言葉を伝えられたのだとしてもやはり霊界においては神が号令を発して人に伝達されているのである。
イエスもまた「私が自ら話しているのではない。神が私を通じて話されるのである」と言われたが、当時の弟子たちも少なからず私が抱えていたような感覚をもってイエスの言葉を聞いていたのだろう。というのも、これは肉によっては悟ることができず、霊で悟って初めて理解することのできる感覚だからである。霊界で見たこと、悟ったことは地上で表現しようとすると難しい。それは霊界が無言の世界であり、口を開かずとも互いに意思が通じ合うように波長によって伝達されるような次元の異なる世界だからである。
神は褒むべきかな、私にとってそのようなキリストに対する誤った認識こそその週に葬るべきものだったのである。
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