ふと頭に浮かんだ幼い頃に食べていたカレーのパッケージ、
その記憶は温かいようであり、
同時に私の心に影を投じるものとなった。
母の愛がそこにはあっただろう。
しかしなぜか心には苦しみを覚える。
いつからだろう、
キャラクターものを見るのが嫌になった。
ある時見た土産物の包装紙には
明るい笑顔で笑う農家の写真があった。
その笑顔に私の心は暗くなった。
今思うと、それらはカレーの記憶と同じだった。
聖霊は私に話された、
「切れているからだ」。
現在から見たとき、
それらは孤立した記憶なのだ。
なくてはならなかった生ではなく、
なくても成り立つもの、
やがては忘れ去られるものなのだ。
そのカレーが神との経緯のうちにあったなら、
子供たちを笑顔にするキャラクターが神との経緯があるものであったなら、
その農家の笑顔が神との経緯から来る喜びによるものであったなら、
それらは後に振り返ったとしても、
自らの生を成り立たせるつながったひと時として
神の前に感謝と共に話に花を咲かせることができるだろう。
どの時点を思い返したとしても連続した生、
それこそが終わりの日に「満足だ」と人に告白させるものではないか。
CGM New Harmony Church 動物たちの愉快な日常