CGM New Harmony Church

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よくある宗教系問いかけシリーズ第二弾『New Harmony Churchとお金』

coin and bill

うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…

というNew Harmony Church(以下NHC)のSNSの担当者の一言を受けて始まった本シリーズは、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNew Harmony Churchの人の目線で語ってみようというものである。第二弾が公開できたことでひとまずシリーズものに近づきつつあることに安堵する今日この頃である。

今回は宗教と言うと必ずと言ってよいほど人々が口にするこの会話を扱ってみようと思う。

「宗教入ってるんだって?お金大丈夫なの?」

なぜこのような繊細なテーマをシリーズ二回目にして扱うかといえば、もしかすると私たちがNHCで何を教わっているかということよりもまず私たちが経済的にやっていけているのかという心配をされる方々が多いのではないかという憶測の下、ひとまずこの憂慮を払拭せずしては人々が常に悶々たる思いに押しつぶされそうになりながらNHCの深い聖書の話、笑顔の映えるイベントの告知・報告などを見聞きすることになり、結果として双方共に恵みがないのではないかと判断したからである。

しかし私は思う、この経済的な事情に対して関心を抱くのは教会の外の人々だけではないと。他ならぬ教会に通い、キリストに従って神の権能と恵みと慈愛と救いを信じる私たちもまた同様に自身の経済力についてはことあるごとに注意を払っており、文無しゆえにキリストと神の御力が侮られて人々が神を信じるつまずきになることのないように、また文無しゆえに自らが主の働きを断念し、甚だしくは生活の困苦に押されて永遠の霊の命に至る信仰を放棄することのないようにと、いつも豊かに恵みを賜る神を辱めない程度の祈りを捧げながら経済を運営している次第である。

NHCでは約四半期に一度の頻度で金の出ると入るとを項目を明らかにしながら教会の人々に報告しており、責任者はチャット一つで質問をできるほど身近である。

さて、およそ教会なるものは福音を伝え、神に仕え、福音を実践することを目的としたところであるから、福音を伝える者が必要であり、福音を伝える場所や神に礼拝する場所が必要であり、また福音を実践する機会が必要である。すなわち牧師を初めとした主の働きに専念する者たちは福音を人々に伝えることやそのための自らの学びに時間を費やしており、出るもののうちではそのように経済活動から離れた場所に身を置いた彼らの生活費を賄うものとして分配されているものが一部ある(無論中には福音の務めをしながらパウロのように自ら生業を持って教会からの手当てをもらわずに生活を送る者もいる)。

また神に礼拝し、福音を伝えるための教会やその他の場をただでは確保することはできない。残念ながらNHCはいまだ借り家暮らしを免れず、少額とは言えない部分が家賃で消えている。昨今の状況からインターネットを通じて福音を伝える設備やシステムも備えなければならず、それらに投資している部分もある。

はたまた教会の理念を実践する奉仕活動やスポーツイベントなどを行う際には会場費や飲み物などのささやかな参加賞などに対する出費も考慮せねばならない。

その他NHCが所属するキリスト教福音宣教会自体への分配金(教団事務局運営費)を除いて残ったわずかな部分をいずれ来るべき教会の建物の購入のための資金として健気に貯蓄しているような次第である。

イエスは言われた、「働き人がその報酬を得るのは当然である」。パウロもまた言った、「私たちには飲み食いをする権利がないのか。霊のものを蒔いたなら肉のものを刈り取るのは行き過ぎであろうか」。宗教に限らず世間一般の非営利団体であれ営利団体であれ、あらゆる活動は入ってくるものと出ていくものの均衡が取れなければ破綻するのであって、それゆえ健全な献金はなくてはならないものであるが、これが悪魔の惑わしによる金銭への崇拝に根本が変わったときにあらゆる問題が生じるのである(「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」。アァメン)。

さて、集めた金の使い道を見たところで、それらがどこから来るかといえば、それがいわゆる「献金」である。まずは「私(神)に収穫の十分の一を携えてきなさい」と聖書にあるように収入の十分の一を捧げるものがあり、金額の特に定まっていない主日(日曜日)の礼拝時に捧げるものがあり、また神の前に特別に感謝を捧げたいときに金銭の形で捧げるものもある。

このようにいくつか自らが所有する金を教会に拠出する機会があるが(これは人間的な言い方ではある)、NHCおよびキリスト教福音宣教会では「献金は神に捧げる真心である」と教えられており、生活が困窮して出せるものがないのに出す必要はなく、不満をもらしながら捧げる献金は神に受領されることはないためにむしろ捧げないようにと教えられる。集金係が座席を回るが、封筒を集金袋に入れずに袋をそのまま横の人に渡す人も珍しくない(「十円しか入れなかった」と打ち明ける者もいる)。誰がいくら献金したと公表されることもない。出さないからといって公然と、あるいは内密に叱責されることもない。

当宣教会の創設者である鄭明析は言う、「感謝は下さった方に報いることだ。神への感謝を全て物質や金で捧げようとしたら到底できない。命を救われたことにどうやって金で報いるのか。天国に行かせてくださることにどうやって値打ちが付けられようか。それだから心で捧げ、行いで捧げなさい。感謝しないことによる負債を負わないようにしなさい。そのためにも生活の中でいつも感謝を捧げなさい。そのようにして『全てのことに感謝しなさい』と言うのだ」。彼自身、幼い頃に自分一人しかいない畑で神に愛を告白しながら「何も捧げられるものがないから私自身を捧げます」と言ったという。祝福の根本は神、すなわち「与えるも神、取り去られるのも神」であるから、人が捧げる金というものは神との循環を支える一種の形態にすぎないのである。

こうしてNHCと金の出入りについて制度的、信仰的側面から書いてみたが、これが教会に関わらず人間が日常遭遇するやり取りと決して変わらないことが読者に対して明らかになったなら幸いである。この社会で生きる上で金や物質はなくてはならず、それゆえいくら「タダが好き」でも必要な金の流れは存在しなくてはならない。またたとえ人の間で贈り物をしようにもその物質自体よりそこに込められた愛や真心がうれしいのであって、相手が金にも物質にも事欠かない地位にある者ならなおさらである。

神は言われた、「私は生贄より従順を好む」。これは形式的には捧げものをしながらも、一方では律法に背いて欲に従ってさまざまな暴虐と悪を行っていたイスラエルに向かって言われた言葉であるが、イエスが言われるように「心を尽くし、精神を尽くし、命を尽くして主なるあなたの神を愛せよ。また、あなたが自分自身を愛するように人々を愛せよ。この二つの戒めに律法全体と預言者とがかかっている」のであり、神が人に望まれることはただ人がご自身を愛することだけなのである。

次回は何を書こうか、それとも終わりにしようか。せめて第三弾があれば「前編・後編」ではなく「シリーズ」と言えるだろう。私が書く必要もないかもしれない。ここNHCにはさまざまな証人がいるのだから。


ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。