CGM New Harmony Church

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よくある宗教系問いかけシリーズ第一弾『New Harmony Churchと飲食』

drink and plates

うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…

というNew Harmony Church(以下NHC)のSNSの担当者の一言を受けて始まった本シリーズは、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNew Harmony Churchの人の目線で語ってみようというものである。思い付きで始まったからには数回で力尽きるかもしれないし、そうでないかもしれない。

ひとまず簡単に書けそうな話題としては「肉を食べない、酒を飲まない」などの飲食に関わるものが思い浮かんだため、今回はそれに関する疑問を取り上げることにする。

「肉を食べないって?宗教なの?」

誰しも聞いたことがあるだろうし、自身も口にしたことがある言葉だと思われる。私の推測ではこれは恐らくイスラム教やヒンドゥー教のイメージで浮かぶ質問であろう。イスラム教は豚を食べないし、ヒンドゥー教は牛を食べない。それだから「肉を口にしない」が「牛や豚を食べない」となり、「宗教なの?」となるのであろう。あるいは修道僧の(?)ひじきなどの「精進料理」を思い浮かべてか、仏教が殺生について論じることを思い浮かべてか「宗教なの?」となるのかもしれない。

それではNHCは無関係なわけで、肉の話はこれで終わりにしてもよいのであるが、ひょっとすると読者の中には「確かにそんな感じではあるが、もしかしてキリスト教にはそうした規制はないのか」と尋ねる者もいるかもしれない。一般には「聞いたことがない」と答えれば済む問題かもしれない。しかしながら私としては

「もしや彼はローマ時代の論争を知っているのか…?」

という万が一の可能性を捨てることができないゆえ、ある程度真面目な回答を用意せねばならない。

イエスが亡くなられた後に彼の福音がローマにも広まってクリスチャンが増えるようになると、肉が当時の偶像に捧げられたものであるとか、ないとか、どうだったとかで「肉を食べるべきではないのではないか」と言う者が現れた。これについてパウロが『ローマ人への手紙』の中で「私たちには一切のことは許されている」と断ったうえで、つまりどこにもそのような教理はなく、肉を食べたければ自由に食べたらよいという前提のもとで、「しかしそれが偶像に捧げられたかもしれないということでつまずく者がいるのであれば私は食べないことにする」と語っているのである。

新約聖書で肉の話が出てくるのはこの箇所くらいであって(旧約聖書には律法でいろいろ規定が書いてある)、つまるところNHCでは何のはばかることなく肉を食べる。「まずは肉だ」というNHCが属するキリスト教福音宣教会の教えを口にしながら肉を食べる者もいる(この言葉は簡単に言うと「信仰生活をするのに肉体の生活基盤が整っていなかったら続けられないだろう」という意味である)。無論「健康管理は自分の責任分担であって、ろくに管理もしないで神のせいにしてはいけない」という教えもあるため野菜も食べる。そして当宣教会の創設者である鄭明析自身も「私は小食だけれども(栄養面を考慮して)豚肉を薬だと思って食べている」と語っている。

そもそも神は創世記で「地を這う家畜と空飛ぶ鳥と海の魚を人に治めさせよう」と祝福しており、自然万物は人間がその目的のとおりに適宜使うようにと与えられているものなのである。食べるも自由、食べないも自由、「一切は許されている」のであり、脂質が少ないからという理由で鶏肉や魚を好んで食べるのも問題がない(私は魚が好きである)。

ここまでのところでNHCは肉を拒絶しないということを明らかにした。一方で、

「酒を飲まないって?宗教なの?」

という言葉も誰しも聞いたことがあるだろうし、自身も口にしたことがあるものだと思われる。私の推測ではこれが恐らくイスラム教のイメージで浮かぶ質問であろう。イスラム教ではアルコールを避ける。それだから「酒を飲まない」が「宗教なの?」となるのであろう。

しかしこれについてはNHCは無関係ではない。なぜなら、確かにNHCの人々は酒を飲まないからである。これについてはパウロが『コリント人への第一の手紙』の中で「酒に酔う者は神の国を継ぐことはない」と書いているとおりであって、鄭明析の言葉で言えば「一国の首相の前で酔っ払って話をしますか?まして尊大な神の前でそれではいけないでしょう」というものである(もっとも、昔彼の弟が泥酔して家に帰ってきた際には彼はたしなめるどころかひたすら介抱しながら弟の体の心配をしたと言われており、弟はその愛に心を打たれて自ら酒を飲まなくなったのだという)。

ただ、これが宗教的かと言えば必ずしもそうではなく、酒を飲まないこと自体は健康に関することを含めさまざまな要因から世間一般にも浸透してきているというのは読者の中にもご存じの方が多いであろう。『「そろそろ、お酒やめようかな」と思ったときに読む本』(垣渕 洋一、青春出版社)で紹介された統計によると、「酒を飲まない・酒を全く飲まない」と答えた人は今や55%であって、酒を飲む習慣がある人が少数派になっているという。また同書によれば「酒は百薬の長」という言葉も中国の皇帝が酒税を目的に作った標語なのだという。

私自身も学生の頃は引退までサークルに所属して飲み会に参加していた者であって、ビールやら泡盛やらを飲んでいた。サークルの飲み会は酒をゲームとして飲むのであって、決してたしなむものではない。酒を好む程度の差はあれど、私を含めて皆「強い酒を飲むことの英雄、混ぜた酒を飲むことの勇士」であった。飲みすぎて体調を崩してトイレを占領したこともあった。そうして酔いつぶれた壮行会の後に決心したのが、「酒は決して体に良いものではない。今後一切酒を飲むのはやめよう」であった。つまりは私の場合は教理というより身をもってその良くないことを悟ったのである。

ところで、酒を飲まないことについて、宗教によっては強要されることがあるというイメージを持つ読者もいるかもしれない。確かに特定の宗教では宗派次第で強要もあるのかもしれないが、NHCではそうではない(だからといって「飲んでもいいよ」とは言わず、人によってはあくまで本人の自由意志に任せて勧めるくらいのことはある)。なぜなら初めから完全な者などおらず、誰しもさまざまな神の前の罪を聖霊と共にもがきながら洗い清めていくものだからである。鄭明析自身、「私はさまざまな悪い性格を直すために十八年はかかった」と語っている(無論今も彼はその時々祈りによって聖霊が話されることに従って「復活」し続けている)。

以上で飲食についての話は大方話尽くしたのではないかと思う。初回にしては大分長々と書いてしまったように思う。次回以降はこれと同じくらい書くかもしれないし、圧倒的に短いかもしれないし、はたまた書くかどうかすらも分からないが、ひとまず第一弾はこれで終わりとする。

ABOUT ME
マシュー
自分の持っているものを使いたい。神様のために生きたい。それが小さな自分にもできる大きなこと。「この人生を後悔のないように生きるにはどうしたらよいのだろう」と、かすかにくすぶる火種のような、ささやくそよ風のような一人の地球の民。