うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…
というNew Harmony Church(以下NHC)のSNSの担当者の一言を受けて始まった本シリーズは、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNHCの人の目線で語ってみようというものである。いつの間にか第五弾となり、すっかり読者にとっても馴染みの深いものになったのではないかと思って喜んでいる今日この頃である。
さて、前回はキリスト教における罪とは何かというテーマでこのシリーズを書いたが、「イエスが罪を贖って救いの道を開かれた」ということ以外にもキリスト教の教えとしてそれなりに人々に広く知られているものがあるとすれば、それはおそらく「死後の復活」についてであろう。キリスト教圏では死後の復活のために土葬にしているということは周知の事実である。しかし人は言うだろう、
「肉体が生き返るなんてことがあるのか」
と。この問に対するNHCとしての答えは「そうではない。生き返るのは肉体ではなく霊である」というものであるが、ここでまたよく耳にする問いかけが聞こえてきそうではないか。
「霊って何?幽霊のこと?」
結論から言うと幽霊は霊であるが、幽霊というものについては存在するとか、しないとか、果たしてどうなのかなどと言われており、人によって信じる、信じないが分かれるものではないかと思う。そこで、今回は霊というものについて私が知っている限りのことを、簡単にではあるが、述べてみようと思う。
まずNHCにおいては「人間には肉の身体があるように霊の身体もある」と教わっている。これはNHCが属するキリスト教福音宣教会の創設者である鄭明析(チョン・ミョンソク)が作り出した概念ではなく、聖書において使徒パウロが語っていることである。人間はさまざまな欲求を持って生きているが、それは他の動物にも見られる食欲や睡眠欲、性欲に始まり、奉仕すること(善とも言えるし、愛とも言える)や「普遍的な何か」の探求(真理とも言える)など肉体が生きる上では関係のないことまで多岐にわたる。また過去を回想して幸せにふけったり、逆に未来を想像して希望や絶望を感じたり、さらにはいずれ来る肉体の死に虚しさを覚えたり、永遠というものまで想像したりするのも人間の特徴である。この永遠に思いを巡らせる点についてはソロモンが「神は人に永遠を思う心を授けられた」という箴言を残しているが、こうした「人間に固有で肉体とはかけ離れた考えや欲求というものは人間に備わった霊から来る」というのがNHCの人々の信じていることである。
さて、この霊なる存在については聖書にこう記されている、「神は霊である」。すなわち神は霊であり、人間も神と通じる霊を持っており、人間はこの霊を通じて神が与える考えを受け取るのである。人が永遠を思い、肉体の死による虚しさを思うのは、神という永遠な霊の存在が、人は誰しも永遠に生きる霊だけを残して肉体は朽ちるようになっており、それゆえ霊に投資して生きるべきことを人間の霊を通じて教えられるからである。また人が奉仕の形で愛を与えようとし、不変な真理なるものを求めるのは、神が真理と愛の根本であり、神が人を真理によって育ち、神との愛を成して生きるようにと創造されたからである(無論福音はこれらのことを肉の言葉で明確に教えるものであって、肉体が無意識に「ふと感じる」状態から意識的に知っている状態へと変化させる役割を持っている)。
ところでこの霊というものは今我々が肉体をもって生活している世界とは異なる世界、すなわち霊界に存在している。霊界は階層構造になっており、大きく分けると下は地獄から始まって、底知れぬ所、黄泉、地上霊界、パラダイス、天国のようになっており、これらの中でもさらに細かく霊の義に従って千差万別に階層が分かれることになる。地獄は霊界における最終的な審判の結果として行く地であって、一度入ったら出てこられない所であり、底知れぬところは奈落とも呼ばれてひたすら落ち続ける場所、黄泉は炎が燃え盛る所、地上霊界は死後の一時的な待機場所とされる。またパラダイスは新約時代に開かれた霊界であり、イエスが十字架の後にそこに行かれたとある。最後に、天国は新しい時代にイエスが再び来られて神とイエスを愛する人々の霊を花嫁として連れていかれる時に開かれる最も良い霊界であり、神がおられる御座もそこにある。「神が明かりである」と聖書にあるように、これらの霊界の階層は、上の世界ほど明るく、下に行けば行くほど暗くなる。
上に挙げた霊界のうち、地獄の他は霊界において霊が義を行うことによって移動する可能性があるが、霊は肉体の考えやその結果としての行いを吸収して形成されるものであり、百年間生きる中で形成された体質は変えるのは容易ではなく、考えが即座に実体となる霊界においては考えを律して修正していくことが難しい。「考えが実体となる」というのは、例えば霊界において遠くに飛んでいる飛行船をよく見たいと思ったらズームアップされて見え、高い塀を越えたいと思ったら身体が高く飛び上がるようなものである。これが愛であれ憎しみであれ、考えたとおりに身体が動くのであるから、行いと内心思っていることが異なることもあり得る肉体とは大きな違いがある。イエスが「兄弟を憎んだなら既に殺人をしたのだ」と教えられたのは、このような霊界において起こっていることを指して言われたものでもある。
それだから「人が母の胎内にいる十ヶ月が重要なように、肉体が生きている百年が重要だ」という話になるのであるが、肉体が行っていることが霊に反映されている様子を見ることができないのであれば、人生一生を終えるまで霊がどうつくられたのか、それをもってどのような霊界に行くのかが分からず修正は困難ということになる。しかし、幸いなことに、実は肉と霊の間には魂(こん)と呼ばれるものがあり、これが半分は肉体に属し、半分は霊界に属しながら肉と霊をつないでいる。魂は簡単に言うと、夢で出てくる自分自身だと思えばよい。霊は体質のようで変化は漸進的なものだが、魂はより敏感にその時々の状態を反映しており、例えば日中誰かを憎んでいれば夢でその誰かを殴っている自分がいたり、祈りや賛美、その他神の前の義を多く積んでいたりすると夢において自身の身長がとても高かったり、何か自分が打ち込んでいるスポーツでものすごい記録を出していたりする。そしてこのように夢において魂が自身の様子を見せるというのは、神が啓示を与えていると言うこともでき、これについては聖書のヨブ記において「神は夜の幻のうちに語られる」とあるとおりである(読者が知らないだけで、既に神は一人ひとりに語りかけているのである)。
こうして霊と魂について説明をしてみたところで、実は読者にとって見に覚えのある身近なものかもしれないと思っていただけたなら、今回の話は意味があったということになる。冒頭で触れた死後の復活についてはここでは書ききれないため、またいつか折を見て語ろうと思う。